国境を越えた

台湾と九州の絆
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2020 / 1月

文・鄧慧純 写真・莊坤儒 翻訳・山口 雪菜


台湾東海岸を走る省道「台九線」ではなく、台湾と日本の九州を結ぶ「台-九線」である。

台湾と九州の距離は約1000キロ、飛行機でわずか2時間と近い。二つの島は、経済活動では同じく中小企業を中心としており、歴史的にも深い結びつきがある。


日本の西南に位置する九州は、日本の古代文明発祥の地であり、また日本の近代化改革を推進した志士の多くも九州の出身だ。かつて台北福岡経済文化弁事処(駐福岡弁事処)処長を務めた戎義俊は、退官後に宮崎県の観光大使に任命された。その話によると、日本では昔から、九州は関門海峡を挟んだ山口県と一つの経済圏を成しており、しばしば九州‧山口地方と呼ばれるそうだ。

九州最北端の門司から関門橋を渡ると山口県の下関市(古くは馬関と呼ばれた)に着く。1895年、その下関のふぐ料亭「春帆楼」で馬関条約(下関条約)が締結された。今でも春帆楼の隣接地にある「日清講和記念館」に、当時の場面や文書が再現されている。ここから台湾の歴史は大きく動き始めた。

物語発祥の地

歴史に新たなページが開かれ、人と人との交流の物語も始まり、台湾と九州の関係はしだいに緊密なものとなっていく。

門司港は1889年に開港、1903年から台湾バナナの輸入が始まり、その頃から熟しすぎたバナナを処理するための「たたき売り」が始まったが、これは大道芸として今も伝わっていて、週末になると街頭で披露される。

日本統治時代、台湾を統治した19人の総督のうち7人は九州‧山口の出身だ。その地の利から、日本政府の政策推進のために台湾に渡ってきた公務員や技術者、教員、警察官などの多くも九州の出身であった。

かつて孫文は、九州の多くの企業家から革命資金の援助を受けた。辛亥革命後の1913年には再び九州を訪れて支援者たちに革命の成功を報告し、当時の九州帝国大学(今の九州大学)で講演を行なっており、その筆になる「学道愛人」の墨宝が保存されている。

多くの日本人から敬愛されている西郷隆盛だが、その長男である西郷菊次郎はかつて台湾で宜蘭庁長を務め、宜蘭川の堤防を整備して民衆の暮らしを改善した。現在の「宜蘭設治紀念館」はその旧宅であり、宜蘭では今もその勤勉さと親しみやすさが語り継がれている。

政治だけではない。「蓬莱米の母」と称えられる末永仁も福岡出身であり、また台南に「ハヤシ百貨店(今の林百貨)」を創設した林芳一と、台北に「菊元百貨店」を創設した重田栄治も山口県の出身だった。

このように台湾と九州は昔から特別な縁で結ばれており、この海を越えた「台-九線」は点から線へとつながっていった。

台湾への永遠の想い

日本統治時代に台湾で生まれた日本人は「湾生」と呼ばれた。戦後彼らは続々と帰国していったが、自分が生まれ育ち、あるいは働き、恋愛をした台湾は、彼らにとって常に気がかりな忘れられない存在である。

2015年、かつて台湾代表として甲子園に出場した台南州立嘉義農林学校の物語を描いた映画『KANO 1931海の向こうの甲子園』が日本で上映された。熊本在住で100歳を超える高木波恵さんは、以前台中の烏日公学校で教えていた頃、ラジオを聞きながら嘉義農林を応援したことを思い出したという。そして当時の教え子たちを思い、孫娘に台湾へ手紙を書かせた。すると、まるで映画『海角七号 君想う、国境の南』のように、台中の郵便局員が熱心に当時の生徒を探し出したのである。当時の生徒たちは、すでに106歳になっていた高木波恵さんとテレビ電話を通して80年ぶりの再開を果たし、「先生」と呼びかけた。

駐福岡弁事処の現処長である陳忠正は、すでに物故した小菅亥三郎氏の物語を語ってくれた。企業経営者だった小菅氏は、台湾に社員旅行に行った際、花蓮‧台東で戦争中に日本のために南洋で亡くなった先住民族の高砂義勇隊の物語を知った。さらに、かつて小菅氏の父親と一緒にフィリピンで捕虜になったという台湾人とたまたま出会い、以来、小菅氏は社員旅行を慰霊の旅と位置付け、20年にわたって毎年必ず台湾を訪れて高砂義勇隊の遺族を訪ね、死者を弔ってきた。

現在、山口県日台親善協会の会長を務める中治宣光氏は今年83歳になる。氏は台北菊元百貨の創設者‧重田栄治の孫で、台湾で生まれ、10歳の時に日本へ帰った。サトウキビを運搬するトロッコで基隆港まで出て、貨物船に乗って日本へ向かったという。彼の家は建成小学校(現在の台北市建成中学)の隣りにあった。かつて菊元百貨店から帰宅する途中で道に迷った時には、優しい台湾人が家まで送ってくれたことを覚えている。また、台北大空襲の時には、天母から総督府(今の総統府)が燃える様子も見た。「台湾のことは今もよく覚えていますよ」と、中治宣光氏は私たちに話してくれた。

今年4月、山口県の錦帯橋まつりでは山口県日台親善協会がブースを出し、台湾から取り寄せた果物や菓子のチャリティセールを行なった。そしてその場で、駐福岡弁事処が管轄する華僑コミュニティが呼びかける台湾のWHA(WHOの年次総会)参加を支持する署名活動も行なった。駐福岡弁事処秘書の李杰宏によると、その時の署名活動では全体の4分の3が山口県で集められ、すでに70~80歳の高齢者が街頭で声をかけて署名を集めてくれたことに胸が熱くなったという。しかし中治宣光氏は淡々と「少しでも台湾の役に立ちたかっただけです」と語る。

年齢を重ねるにつれ、中治氏の台湾への思いは強くなり、「自分のルーツは台湾にあると感じています。一生台湾のことは忘れません」と言う。氏は「台湾が永遠に台湾であることを願う」という内容の文章も書いている。台湾と日本が主権在民の制度の下で、永遠に友好関係を保ってこそ太平洋地域の平和と繁栄に貢献できると考えているからだ。

互恵関係の新たな契機

九州の面積は日本全土の約10分の1、経済規模も全国の10分の1であることから、九州経済圏は「10分の1経済圏」とも呼ばれる。主な産業は、自動車、鉄鋼、バイオ、半導体などだ。福岡台湾貿易センターの駱慧娟処長によると、台湾は九州経済圏にとって第4の輸出先であり、また九州は台湾にとって第8の輸入先だ。2017年の統計によると、台湾から九州へ輸出された製品の65%は半導体関連である。九州の半導体産業は特に台湾との関係が密接で、相互補完の関係にある。台湾は九州から半導体関連設備や原材料を輸入し、それを半製品に加工して日本へ輸出する。一般の消費者が目にすることのない製品のため、あまり馴染みはないが、両者の貿易が盛んなことは数字から見て取れる。

このほかに、国境を越えた起業交流も行われている。2017年に福岡にゴルフェイス社を立ち上げたのは台湾のスタートアップ企業だ。創設者の廖聡哲氏は趣味のゴルフの分野で起業した。従来のゴルフ場経営はハイテク化が進んでおらず、人件費がかかる。そこで彼はゴルフ場管理にテクノロジーを導入し、ビッグデータ分析を通してマーケティングを行ない、収益を高めるというゴルフ場のソリューションを提供している。

世界へ出ていくには、まずアジア最大のゴルフ市場を持つ日本への進出が欠かせないと彼は考えた。だが、日本での起業は容易なことではないため、まずスタートアップ‧コンペに参加して日本での知名度を高め、九州最大の私鉄である西鉄グループから協力を持ちかけられた。

福岡を選んだのは、台湾とリズムが似ていること、そして東京や大阪で起業するよりコストが抑えられることを上げる。もちろん台湾との文化の違いはある。「例えば日本人は手順を重視し、一歩ずつ進めます。顧客を訪問するにも、紹介がなければなりません」と言う。だが福岡市も善意を示し、スタートアップ‧ビザを提供するほか、ワンストップの相談窓口もあり、専門性の高いサービスが得られて助かると廖聡哲氏は言う。

次世代へつなぐ

福岡に到着した日の夜、ちょうど駐福岡弁事処の処長公邸で音楽会が開かれていた。

音楽会を企画し準備したのは九州台日文化交流会の本郷啓成(呉啓成)氏である。基隆鉱工病院の院長で声楽家の劉立仁氏、在日声楽家の吉川千巧(林千巧)氏、そして福岡の歓喜合唱団が招かれていた。音楽会には株式会社大島組の大島英二会長や新聞記者も集まっていた。この音楽の宴では、日本語、中国語、閩南語、イタリア語などが飛び交い、最後は全員でテレサ‧テンの「時の流れに身をまかせ」の大合唱となった。

本郷啓成氏は台中出身、家族の多くは歯科医である。30余年前に日本へ移住して福岡に居を構えた。夫人の本郷みどり氏も歯科医で、夫婦は一緒に早良区で開業。早くに日本で「予防歯科」に触れ、治療より予防という考えを重視してきた。本郷啓成氏は妊婦を対象にした子供の歯科指導も行なう。「妊娠4~8週間で乳歯が発達し始め、4ヶ月で永久歯の基礎が形成されるので、母体は最良の状態を保たなければなりません」と言う。町の歯科医であり、親子四世代にわたる患者も多い。専門分野を活かして日本の地域社会との親睦を深めている典型的な事例と言えるだろう。

本郷氏は音楽愛好家でもある。敷地百坪の日本家屋の別荘には、夫婦で集めたアンティークが収められており、その空間を台日交流活動の使用に提供し、国境のない音楽を通して文化交流を推進している。さらに刊行物『台日草の根』を発行して活動を記録し、日本の人々に台湾をもっと知ってもらおうとしている。

「台湾と日本との間にはこのように良好な関係があるのは、年配の方々の努力によるところが大きいのです」と戎義俊は言う。日本の若い世代は台湾のことをあまり理解していないと感じ、戎義俊は国立九州大学に「台湾研究講座」を開いた。さまざまな分野の学者を通して台湾を紹介し、日本の若い世代に台湾への理解を深めてもらいたいと考えている。

陳忠正も駐福岡弁事処の処長に就任した後、若い世代の台湾に対するイメージ確立と相互交流の強化に努めている。近年は、日本の高校生の海外修学旅行の目的地として台湾が選ばれることが多く、アメリカを抜いてトップになっている。陳忠正によると、2017年の日本の統計では、325校の約5万4000人の生徒が台湾に修学旅行に来ている。駐福岡弁事処は早くからこの趨勢に気づき、台湾修学旅行説明会を積極的に開いてきた。今年、熊本で開いた説明会はすでに5回目となり、李杰宏秘書は、日本の多くの若者が台湾を旅することで、青春の日々の記憶に台湾を残してほしいと考えている。

台湾と日本の間には歴史的な縁があるが、困難に直面した時こそ真の友情の価値がわかる。2016年の熊本地震の際、台湾はさまざまな支援をした。2018年4月18日の花蓮の地震の翌日には、駱慧娟は同じビルのオフィスに勤める日本人から地震被害を聞かれ、どこへ行けば寄付ができるか訊ねられた。東日本大震災からすでに8年になるが、当時の台湾からの支援に対して今でも多くの日本人から感謝され、かえって恐縮してしまうほどだ。本郷啓成氏は「あなたが片手を差し出すと、相手は両手でそれを握ってくれます」と語ってくれた。このような友情が永遠に続くことを心から願いたい。

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跨國界的「台」「九」線

兩地牽成的「絆」

文‧鄧慧純 圖‧莊坤儒

不是台灣東岸傍海的台九線,而是連結台灣和九州的「台九線」。

在太平洋西岸,與台灣相距約1,000公里的九州,兩地飛行時間只需兩小時,同樣以中小企業為主的兩個島嶼,因歷史結成緣分。


位在日本西南方的九州,是日本遠古文明的發源地,日本近代改革巨輪的推動者亦多是九州的志士。曾任台北駐福岡經濟文化辦事處(簡稱:駐福岡辦事處)處長的戎義俊,退休後受聘為宮崎大使(似觀光代言人),他說認識九州得先「說文解字」,在日本的認知中,九州地方尚包含隔著關門海峽相望的山口縣,自古以來,九州、山口同屬一個經濟圈,常見九州‧山口地方並稱。

故事開始的地方

從九州最北端的門司港經過關門大橋,即是山口縣的「下關」(舊稱「馬關」)。1895年「馬關條約」在河豚料理店「春帆樓」簽訂,今日春帆樓境內的「日清講和紀念館」重現當時的場景與文件,台灣自此踏上不同的道路。

歷史掀開了新的場景,人的故事接續交織上場,台灣與九州益發緊密的交集。

門司港於1889年開港,1903年即開始進口台灣香蕉,而當初為了處理過熟的香蕉,應運而生的「香蕉叫賣」,這項技藝至今仍被保存著,在週末的街頭上演。

日治時期,台灣19位總督中有七位出身九州‧山口地區。因著地緣之便,來台灣協助日本政府推動諸多政策的,如公務人員、技術人員、教師、警察等也多來自九州。

孫中山先生當年為了籌措革命款項,曾獲九州多位企業家援助。1913年,他重返九州,向舊友報告革命成功,並在當時的九州帝國大學(今九州大學)演講,至今該校還留有他揮毫「學道愛人」的墨寶。

深獲日本人敬愛的西郷隆盛,其長子西郷菊次郎曾任宜蘭廳廳長,他花費諸多心力整治宜蘭川堤防,改善民眾生活條件,現今的「宜蘭設治紀念館」是其故居,宜蘭人至今還記著他的勤政愛民。

不只政治,也關乎民生。被稱為「蓬萊米之母」的末永仁係福岡出身。日治時期,各據台灣南北的「林百貨」和「菊元百貨」創辦人林方一和重田榮治都出身山口縣。

諸多的典故和遺跡,說明台灣與九州特別的緣分,在日治時期,這條跨海的「台九線」就從點到線被牽起。

關心永遠在

日治時期,在台灣出生的日本人被稱為「灣生」,戰後,他們陸續被送回日本,但這一群人,他們成長、工作、戀愛都在台灣,台灣始終是他們的想望。

2015年,講述台灣嘉義農林學校力拼甲子園的故事《KANO》在日本上映。身在熊本,已超過百歲的高木波恵憶起當年任職台中烏日公學校的自己,曾聽著廣播為選手加油。往事浮現,她心繫當年教過的孩子們,於是請孫女寫信到台灣,宛如電影《海角七號》的劇情,熱心的台中郵差竭力幫忙找到當年的學生,讓當時已106歲的高木波恵透過網路視訊與這群學生再次相見,在80年後學生們再喊一聲「先生」。

現任駐福岡辦事處處長陳忠正則分享已故的小菅亥三郎的故事。身為企業老闆,他帶團到台灣員工旅遊,在花東旅行之時,意外得知日治時代,為日本捐軀戰死南洋的原住民高砂義勇隊的故事;又巧遇當年與他父親一同在菲律賓被俘虜的台灣同袍,讓他從此把員工旅遊改為慰靈旅行,每年定期到台灣來祭拜、探視高砂義勇軍的遺族,至今已持續20年之久。

現為山口縣日台親善協會會長的中治宣光,今年已經83歲了,他是台北菊元百貨創辦人重田榮治的外孫,在台灣出生,10歲返回日本。當年他搭著載運甘蔗的小火車到了基隆港,上了貨船,回到日本。他家住在建成小學校(今台北市建成國中)旁,曾經從菊元百貨回家的路上迷路了,遇到好心的台灣人將他送回。還有台北大空襲時,他從天母那頭看到總督府(今總統府)失火的樣態。「關於台灣的事情,至今我都還記得。」與中治宣光一見面,他就這樣告訴我們。

今年4月,山口縣錦帶橋廣場舉辦祭典,山口縣日台親善協會自發地租借攤位,採購台灣的水果、小零食義賣,藉機響應駐福岡辦事處轄區僑社發起的支持台灣加入世界衛生大會(WHA)的連署活動。駐福岡辦事處祕書李杰宏表示,當次募得的連署書中有3/4來自山口縣,看著這群年已七、八十歲的老人不畏辛苦,在街頭吆喝,一邊邀請日本友人為台灣簽名,他覺得「足甘心」,但中治宣光只淡淡的說:「我只是想做一些可以幫助台灣的事情。」

隨著年紀增長,中治宣光對台灣的思念越來越濃,「我覺得自己的根在台灣,我一輩子不會忘記台灣。」他也為文提及,希望「台灣永遠是台灣」,台日在主權在民的制度下,務必要永遠交好,才能協力為太平洋地域的和平與繁榮做出貢獻。

互惠互利創新機

九州的面積約是日本的十分之一,經濟規模也是全國的十分之一,故九州經濟圈又有「十分之一經濟圈」之稱,主要產業包含汽車、鋼鐵、生技及半導體等。福岡台灣貿易中心所長駱慧娟表示,台灣是九州經濟圈第四大出口市場,而九州是台灣第八大進口市場,根據2017年統計資料,台灣出口九州地區的產品65%以上都與半導體相關。半導體產業尤與台灣關係密切,彼此互補。台灣從九州進口相關設備及原料,再加工成半成品出口到日本,因為不是最終產品一般民眾不易感受得到,但其實兩地進出口的往來熱絡,從數字即可看出。

另一方面,跨國的創業交流也在進行中。2017年甫在福岡成立的Golface是台灣的新創業者。創辦人廖聰哲從高爾夫球興趣中找到事業的藍海。傳統高爾夫球場科技化程度低,極度耗費人力成本,廖聰哲運用科技輔助球場管理,並利用收集的大數據進行分析,協助球場行銷與獲利,可謂是高爾夫球市場完整的解決方案。

看好日本是亞洲最大的高爾夫球市場,要進軍國際,一定得先到日本投石問路。然而在日本創業並不容易,他先透過創業競賽,在日本取得能見度,並吸引九州民營鐵路巨頭西鐵集團的興趣來洽談合作。

選擇福岡,廖聰哲直言主因是福岡與台灣的步調相近,再者在福岡創業的成本較東京、大阪低;雖然也不免會遭遇文化差異,「比如日本人重視程序,循序漸進,客戶拜訪一定要透過引薦等等。」但福岡市府釋出善意,提供「創業簽證」(STARTUP VISA)制度及一站式的諮詢服務,專業到位,幫助很大,廖聰哲這樣表示。

展望新世代

抵達福岡當晚,剛好趕上參加駐福岡辦事處處長官邸音樂會。

見到九州台日文化交流會會長本郷啟成(吳啟成),才知曉當晚的音樂表演全由他一手籌備,邀約剛接任基隆礦工醫院院長兼聲樂家的劉立仁、旅日的聲樂家吉川千巧(林千巧)及福岡歡喜合唱團表演。當晚還有大島組株式會社大島英二會長一家及報社記者共襄盛舉。一整夜的音樂饗宴,日文、中文、閩南語、義大利文等多語種,最後一起大合唱台灣的鄧麗君、日本的美空雲雀都演唱過的名曲「時の流れに身をまかせ」(中文版歌名:我只在乎你)。

本郷啟成出身台中,家族多是牙科醫師。30多年前移民日本,落腳福岡,夫人本郷綠也是牙醫師,兩人一起在早良區開業。早年在日本接觸「預防齒科」的專業,讓他重視預防勝於治療的概念,從女性懷孕開始,本郷啟成就開始宣導患者牙齒的衛教。「懷孕4~8周時,乳牙開始發展,4個月恆齒的根基生成,把母體調適到最佳狀態,孩子的牙齒一生受用。」作為街坊的家庭牙醫師,許多日本家庭一戶四代的牙齒都是他在守護,用自己的專業,在日本敦親睦鄰,本郷啟成可說是典範。

音樂是他另一門愛好,本郷啟成在鄉下的別墅,是佔地百坪的日式老屋,陳列他與太太收藏多年的古董,他大方無私地提供空間供台日交流活動使用。音樂無國界,藉由音樂來做台日文化交流,他也編輯刊物《台日草の根》,為活動留下紀錄,讓台灣更了解日本,也讓日本更認識台灣,成為中介台日的橋梁。

「台日有這麼好的互動關係,絕大多數是建立在老一輩的身上。」戎義俊略帶感概地說。他觀察到日本的年輕人對台灣不夠了解,而在國立九州大學成立「台灣研究講座」,透過各個專業學者介紹台灣的故事,讓日本的年輕世代有機會更認識台灣。

陳忠正繼任駐福岡辦事處處長後,也持續戮力加強新世代對台灣的印象與互動。近年,日本高中生海外修學旅行的目的地,台灣已超越美國的序位,居各國之冠。陳忠正指出,2017年,日本全國的統計數字,有325間學校,約54,000名學生到台灣修學旅行。駐福岡辦事處早早發覺攀升的趨勢,積極籌辦赴台灣修學旅行說明會。今年在熊本舉辦的說明會已是第五屆,李杰宏祕書解釋,希望更多日本年輕世代來台灣觀光,在他們青春的日子能有屬於台灣的記憶。

台日是歷史結起的緣分,但在患難中更見真情交流。還記得2016年熊本地震時,台灣伸出援手,陪日本度過難關;2018年418花蓮地震的隔天,駱慧娟就收到同棟辦公室的日本友人詢問地震的狀況,到哪邊捐款?距離311東日本大地震已經八年了,至今台灣還是不停的被日本人感謝,都覺得不好意思了。誠如採訪中,本郷啟成所言:「你伸出一隻手,對方會用雙手回握。」這樣的情誼,希望台日能夠永遠傳遞。

The Taiwan–Kyushu Connection

Cathy Teng /photos courtesy of Chuang Kung-ju /tr. by David Mayer

These days, the phrase “Tai jiu xian”—which usually means “Taiwan Provincial Highway No. 9”—doesn’t necessarily refer to the east coast highway at all, but to a burgeoning connection between Taiwan and Japan’s Kyushu Region.


 

The island of Kyushu in southwestern Japan was the cradle of ancient Japanese civilization. And, taking a time machine forward to the late 19th century, we find that many of the movers and shakers who pushed Japan’s momentous Meiji Restoration were from Kyushu. More recently, the ROC diplomat Rong Yee-jung was stationed in Fuku­oka, Kyu­shu’s northernmost prefecture, where he served as consul general at the Fukuoka Branch of the Taipei Economic and Cultural Office in Osaka (TECO Fukuoka Branch). After leaving his position at TECO, Rong was hired as a goodwill ambassador for Miyazaki Prefecture in southeastern Kyu­shu. Just across the Kanmon Strait from Fukuoka, on the island of Honshu, lies Yamaguchi Prefecture. The Japanese people, explains Rong, think of Yama­guchi as part of Kyushu even though it is located on Honshu. Since ancient times, Kyushu and Yamaguchi have constituted a single economic sphere, and their names have often been mentioned in the same breath.

Where stories begin

Across the Kanmon Bridge from the Port of Moji, on Fuku­oka’s north coast, is Shimo­no­seki, the largest city in Yama­guchi Prefecture and the westernmost city on Honshu. The Treaty of Shimonoseki, which ended the First Sino-­Japanese War in 1895, was signed there at the Shunpanro Hotel, an establishment known for its fugu cuisine. Today, the Sino-Japanese Peace Treaty Memorial Hall stands where the treaty was signed. Under the terms of that treaty, Taiwan was ceded to Japan.

This change ushered in a new era of close links between Taiwan and Kyushu.

The Port of Moji was opened in 1889, and began receiving bananas from Taiwan in 1903. To ensure timely sales of the easily perishable fruit, sellers developed a “banana hawking chant” (banana no tatakiuri) that can still be heard in the markets of Japan today on weekends.

Of the 19 governors-general who administered Taiwan during the period of Japanese rule, seven were from the Kyushu‡Yamaguchi area.

Many business leaders in Kyushu helped to bankroll the revolutionary activities of Sun Yat-sen, the founding father of the Republic of China. Sun gave a lecture at Kyu­shu Imperial University (today’s Kyushu University) in 1913 and produced a piece of calligraphy (“Study the Way, Love People”) to commemorate the occasion. The work remains on display at the university today.

Kikujiro Saigo, the eldest son of the esteemed Takamori Saigo, once served as the magistrate of Yilan Prefecture, and today’s Memorial Hall of the Founding of Yilan Administration occupies the site of the magis­trate’s official residence. To this day, the people of Yilan still fondly recall the hardworking former magistrate.

But of course, ties between Taiwan and Kyushu are not limited to the political sphere. Megumu Suenaga, credited as the creator of the fabulously successful Horai rice (called Penglai rice in Chinese), was from Fukuoka. Meanwhile, two of the best known department stores in all of Taiwan during the Japanese period—Hayashi Depart­ment Store in Tainan and Kikumoto Depart­ment Store in Taipei—were established by Hou­ichi Haya­shi and Eiji Shigeta, both of whom hailed from Yamaguchi Prefecture.

These and countless other snippets of life combine to form a very robust Taiwan‡­Kyushu connection.

Permanently linked

Japanese people who were born in Taiwan during the Japanese colonial period and later returned to Japan after World War II came to be known in Japanese as wansei, the “Taiwan-born.” They may have gone back to Japan, but they identified strongly with Taiwan as the land where they had grown up, worked, dated, and married.

In 2015, a long-retired school teacher in Kyushu’s Kumamoto Prefecture named Namie Takagi wrote a letter to a student she had taught in Taiwan before the war. She was prompted to write the letter after Kano—a film about high-school baseball in Taiwan in the prewar period—hit ­theaters in Japan. The movie reminded the 106-year-old Takagi of the students she had once taught at Wuri Public School in Tai­chung Prefecture, so she mailed off a letter to Taiwan. The address no longer existed, but a determined postman tracked down the intended recipient, and the centenarian eventually had a videoconference chat with several of the students that she had taught 80 years before. They cherished the chance to address her as “sensei” again.

Pierre C.C. Chen, consul general at the TECO Fukuoka Branch, shared the story of the late Isaburou Kosuge, a business owner who led employees on a sightseeing trip to Taiwan in 1998. While touring on the east coast, Kosuge learned about the Takasago Volunteers—members of Taiwanese indigen­ous peoples who fought for Japan in Southeast Asia in WWII—and also happened across a Taiwanese man who had fought for Japan and was taken prisoner alongside Kosuge’s own father in the Philippines. Begin­ning from 1999, he redefined his company trips to Taiwan as “veterans’ memor­ial trips,” which he went on to organize annually for 20 years to pay respects to departed soldiers and visit their family members.

Another living link to Taiwan is 83-year-old Hiromitsu Nakaji, chairman of the Yamaguchi Prefecture Japan‡Taiwan Friendship Association and the grandson of Kikumoto Department Store founder Eiji Shigeta. Born in Taiwan, Nakaji returned to Japan at the age of ten. In Taipei, his family lived right next to Jian Cheng Elementary School (today’s Jian Cheng Junior High), and one day when he got lost on his way home from the department store, a kindhearted Taiwanese person made sure he got home okay. Another memory from those days was the sight of US bombing raids: he still vividly recalls walking along a street in Tianmu in northern Taipei and seeing the Governor-General’s Office (now the Presidential Office Building) erupt in flames downtown. “I still remember my time in Taiwan so clearly,” he says.

This past April, a Taiwanese expatriate organization in Fukuoka took advantage of a ceremony being held in an open square near the Kintai Bridge by showing up at the square and seeking signatures for a petition calling for Taiwan’s admission to the World Health Association. The Yamaguchi Prefecture Japan‡Taiwan Friendship Association rented a space there and set up a booth to show its support for the petition drive. Lee Chieh­hung, a section chief at the TECO Fukuoka Branch, noted that three-­quarters of the people who signed the petition that day were from Yamaguchi Prefecture, and added that it was very moving to see a bunch of old-timers in their 70s and 80s spending the day seeking petition signatures for Taiwan’s sake. But Nakaji downplays what he did: “I just wanted to do a little something to help Taiwan.”

Nakaji feels that his roots are in Taiwan, and says he’ll never forget the place. He once wrote to express his hope that “Taiwan will always be Taiwan.” Taiwan must always be Japan’s friend, he said, if it is to contribute to peace and prosperity in the Pacific region.

Working together

Kyushu accounts for about one-tenth of Japan’s land area and a tenth of the national economy, which is why people refer to Kyushu as a “10% economic sphere.” Jenni­fer H.C. Lo, director of the Taiwan Trade Center, Fuku­oka, says that Taiwan is the Kyushu economic sphere’s fourth-largest export market, while Kyushu is Taiwan’s eighth-largest source of imports. Kyushu’s semiconductor industry, in particular, has especially close ties to Taiwan.

Significant cross-border entrepreneurial undertakings are also taking place. Ian Liao, who founded a startup called Golface in Fukuoka in 2017, parlayed his enthusiasm for golf into a successful business model. Conventional golf courses have been slow to adopt technology, which means they spend a lot of money on payroll, so Golface has stepped into the gap by providing tech-based golf club management tools.

Since Japan has the biggest golfing market in Asia, Liao chose to first try his hand in Japan before embarking upon the international market.

Liao says he chose to locate in Fukuoka mainly because life there is a lot like it is in Taiwan. To be sure, one still has to deal with cultural differences. “The Japanese are sticklers for procedure and doing things by the book, for example. You don’t just make unannounced visits to potential clients, but have to be introduced by someone.” However, the Fukuoka City Government offers foreign entrepreneurs a Startup Visa and a one-stop advisory service. The city government is very professional and helpful, he reports.

Looking to the next generation

On the evening when this reporter arrived in Fuku­oka, they were holding a concert at the official residence of the TECO Fukuoka Branch’s consul general.

The arrangements for the concert were handled by Keisei Hongo (Wu Qicheng), the chairman of the ­Kyushu‡Taiwan Cultural Exchange Association. A pair of musicians from Taiwan—Liu Liren (who is also the president of Taiwan Miners Hospital in Keelung) and Chiko Yoshikawa (Lin Qianqiao)—performed classical music before closing out the evening by joining with the guests in singing I Only Care About You, a pop song made famous in both Man­darin and Japanese by superstars Teresa Teng of Taiwan and Hibari Misora of Japan.

Hongo, a native of Taichung and a dentist, emigrated to Japan 30 years ago and settled in Fuku­oka. His wife Midori is also a dentist, so they opened a clinic in Fuku­oka’s Sawara Ward. As the opera­tors of a neighborhood dental practice, they’ve seen to the needs of many families for up to four genera­tions. One would be hard pressed to find better people-­to-people ambassadors for Taiwan.

As a big music aficionado, Hongo often makes an old home he owns in the Japanese countryside available for use in Taiwan‡Japan musical exchange activities. Music knows no borders. By providing the medium for international exchange, it has served as a two-way bridge that has helped the people of Taiwan and Japan to better under­stand each other.

With a bit of a wistful note in his voice, Rong Yee-jung (who also goes by Yoshitoshi Ebisu, the Japanese reading of his name) comments: “The excellent ties we have between Taiwan and Japan depend in large part on the older generations.” To better familiarize students with Taiwan, he established a Taiwan Studies Program. Taking over as consul general at the TECO Fuku­oka Branch, Pierre C.C. Chen has continued Rong’s efforts to strengthen ties among younger people in Taiwan and Japan. On this front, it bears noting that among Japan­ese high-school students taking part in study-abroad programs in recent years, Taiwan has replaced the United States as the most preferred destination. The TECO Fukuoka Branch noted this trend long ago and began holding informational meetings for those thinking of studying in Taiwan. The meeting held this year in Kumamoto was the fifth one to date. Section chief Lee Chiehhung explains that TECO hopes to encourage more young Japanese people to travel in Taiwan so that our country will occupy a place in the memories of their youth.

The ties that bind Taiwan and Japan are very much a product of our shared history, and the strength of the connection shows through when the chips are down. When a major earthquake struck Kumamoto in 2016, the Taiwanese people generously helped those affected get back on their feet. And in April 2018, the day after the big earthquake in Hualien the Taiwan Trade Center’s Jennifer Lo received messages from Japanese friends working in the same office building who wanted to know where to go to donate to the relief effort. As Keisei Hongo told this reporter: “If you reach out with one hand, the other person will take that hand in both of theirs.” Let’s hope that this deep friendship between Taiwan and Japan will remain strong forever.

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