1日36時間
病の進行とともに患者の行動も理解し難く、制御し難いものとなり、ケアは困難を増していく。
アメリカで看護師をしていた田嘉嘉さん(仮名)は認知症の両親を介護するため、4年前に休職、昨年には早目に定年退職して台湾へ戻った。
「かつては一人で10人の認知症患者の看護をできたのですが、自分の親にはてこずりました」まだ自在に動ける中度認知症患者は24時間、目が離せない。一番いいのは3人交替でケアに当たることだ。ところが40年間家を切り盛りしてきた母親は、帰ってきた娘に「領土を侵される」と感じ、頼んだ介護の人も追い出してしまった。
86歳の父親(軽度)と82歳の母親(中度)は二人とも足腰は達者で歯も丈夫、一般の老人より健康に見えるほどだ。だが、出かけると道に迷い、交番まで迎えに行くことになる。娘が財産をねらって毒を盛ろうとしていると妄想を抱く。日夜が逆転し、夜中に動き回るなど、田さんは3週間ろくに眠れないこともあった。「頭がおかしくなりそうだった」ので、とうとう母親を二晩入院させ、父親をデイケアに1週間預けた。おかげで少しは休息でき、ダウンせずにすんだ。
「はっきり言ってこれは、希望もなく、何ら報いも期待できない仕事です」と田さんは言う。植物状態になっている人なら、いつか目覚めるかもという一縷の希望を抱ける。が、認知症の場合、回復する希望はないばかりか患者の症状が一刻一刻と悪化するのを目の当たりにする。「患者が安全で衛生的に、かつ尊厳のある暮らしができるよう、できるだけのことをするだけです。悔いが残らないように」と言う田さんは独身で59歳になる。認知症の両親とともに自らも老いを迎える覚悟はできている。だが、台湾では社会的サポートが少な過ぎることに失望し、心配でもある。
例えば在宅サービスの場合、アメリカなら認知症専門の看護師が自宅まで来て、どの程度のサービスが必要かを判断する。が、台湾では医療とは関係のないソーシャルワーカーがそれを担当するため、判断の基準も「どれほど行動が不自由か」の一点になる。つまり歩行に杖が必要か、一人で食事できるか、トイレに行けるかなどだ。「認知症患者はそういうことはできます。でも杖で人を殴ったり、夕食を3回食べても『食事させてもらえない』と文句を言います」認知症と一般老人介護のニーズは全く異なると田さんは説明する。
忘れる幸せ
林さんは心血管疾患で脳萎縮が起きる血管性認知症になった。病院で介護の仕事をする次女は、箸を持つ父の手がふるえているのに気づき、すぐに病院に連れて行った。しかし消極的で友人もおらず、出不精な父は病状を一気に悪化させた。
たった7年の間に林さんは、ところかまわず大小便をしたり食べ物を隠したりし始め、やがて自分の大便までも隠して回り、時には空の鍋を火にかけたり、夜中に蝋燭をともしたりして、目の離せない状態になった。「まるで学齢前の子供に戻ったみたいに、昼は寝て夜は徹夜で遊んでいました」働く4人の姉妹と老いた母は、父に振り回される毎日になったと林玲さんは言う。「想像してみてください。身長170センチ余り、体重80キロを超える大男がでたらめにやりたい放題をやっている状況がどのようなものか」
危険なのと、昼間は母親一人で対処しかねるのとで、姉妹は周囲の非難の目に抗い、あえて父を長庚病院介護センターに預けることにした。「こういうことは家族の考えが最も大切で、周りがとやかく言う権利はありません」と林玲さんは言う。家族の顔も見分けられず、言うことを聞かない患者の世話がどれほど大変か、「愛」などという言葉で簡単にケリのつくものではない。
介護センターでの5年間も林さんの病状は進行し続ける。以前はお正月や祝日は家で家族とともに迎えたが、この2年は筋肉が萎縮して歩けず、姉妹と母親がセンターに出向いてともに過ごす。
「父はもう話せませんが、それでも私たちを見ると微笑みます。誰かはわからなくても、自分に優しくしてくれる人だとなんとなくわかるみたいです」体が動かせないのに意識ははっきりしている人より、自我も記憶もなくしてしまった父の方が幸せかもしれないと林玲さんは言う。父親が何も感じず、苦しみもないのが、彼女にとっては最大の慰めなのだ。それは、ほかの認知症患者の家族にとっても同じことなのかもしれない。