
21世紀に神話があるとすれば、それはきっと馬祖で生まれるだろう。
「馬祖」という地名は、女神「媽祖」の言い伝えから来た。およそ千年前の宗太祖の頃、神通力のある林黙娘が遭難した父を探しに海に入り、その遺体がここで発見されたことから、この島は「媽祖」と呼ばれるようになり、その後同音の「馬祖」へと改められた。
馬祖は昔から漁業を頼りとする貧しい島だったが、1949年に国民政府が撤退してきてからは、金門と馬祖とが反共の最前線となり、政治的に注目されることとなった。大勢の兵士がここに駐留し、その消費によって島は潤った。
ミレニアムの年、梁皆得監督が馬祖で映像を撮っていた時、これまで世界で5回しか記録されておらず、その希少さから「神話の鳥」と呼ばれてきたヒガシシナアジサシが発見された。これによって馬祖は世界的に注目されるようになり、世界の生態地図の中で重要な地位を占めるようになった。
そして今年1月、世界的に注目された台湾海峡両岸間の小三通(金門・馬祖からの中国大陸への直航)がスタートしたが、ここでも特殊な縁から馬祖が金門に先んじて最初の訪問団を送り出すことになった。
さまざまな幸運に恵まれた馬祖だが、金門の人々が小三通をビジネスチャンスととらえて大きな期待を寄せているのに比べ、馬祖の人々は着実で、先走った行動に出てはいない。馬祖はその特殊な機運から常に人々から注目されてきたが、大きな変化を迎えようとしている今、両岸の懸け橋となり、再び世紀の神話を生み出すことができるだろうか。
今年3月の末、馬祖の住民によって組織された商業経済貿易視察団が、小三通(金門・馬祖を通しての中国大陸との直航)の港に指定された馬祖の福澳港から出発し、対岸の福建省馬尾へと向った。5月に福州で開かれる「企業招致会」について、中共側と話合うためだ。
これは、馬祖で小三通が始まってから3組目の民間訪問団だ。
視察団が出発した翌日の夜、馬祖駐留軍は「万平操演」という対空防衛射撃演習を行なった。夕日に赤く染まった空へ、照明弾が北竿の方向から上がると、南竿の方から射撃の音が響き始め、地平線にはネオンのような光の束が描き出された。国軍の気迫が感じられなければ、前日の視察団出発を祝して打ち上げられた花火だと勘違いしたかも知れない。
台湾海峡両岸が平和への道を歩み始めようとしている今、かつては厳しい警戒下に置かれていた馬祖の前線では、平和が戦争に取って代ろうとしていることがより強く感じられる。馬祖防衛司令部政治作戦主任の張鵬初さんによると、晴れの日の多い6月になったら、司令部は初めて馬祖の住民を軍事演習の見学に招く予定だという。これによって、軍事警戒区としての時代が過去のものであることを強調すると同時に、地元住民に、小三通開始初期の安全は国軍が支えるということを示すためでもある。
小三通による馬祖からの最初の大陸訪問団は、媽祖を信仰する信者の団体で、その出発の1月2日、馬祖の新しいビジネスチャンスと交流の始まりを告げるかのように、銅鑼の音が響き渡った。しかし、小三通が試験的に始められて3ヶ月がたっても、船が頻繁に往来する姿は見られない。街の商店で尋ねてみると「小三通? 何が通るんだかね」という答えである。
政府は盛り上がっているが、民間の反応は冷やかなのである。
小三通の業務の最前線で働く水上警察の呉さんは次のように話す。
「税関や検疫など、貨物輸入には複雑な手続が必要なので、住民は二の足を踏んでいて、そのため小額貿易(密輸)の数は小三通が始まる前と変っていません。ただ、小額貿易は水上警察が厳しく取締るようになったので、この面でもリスクが大きくなりました。また交通面では、合法的な定期便がないので住民が乗れる船はなく、今も『密航』するしかないのです」
呉さんの話では、3月末までの段階で、訪問団として個別に申請が出されたものを除くと、馬祖地区からの合法的な大陸訪問申請は6件に過ぎず、密航は1件検挙されている。
呉さんの分析によると、馬祖の住民が大陸へ行く場合は大部分が商売のためで、中にはすでに向うで不動産を購入したり、奥さんをもらったりしている人もいるので、定期的に往来しなければならない。ただ、今は正式な交通ルートがなく、水上警察のパトロールも強化されたため、住民からはかえって不満の声が上がっている。
昨年、立法院で「離島建設条例」の中に小三通を盛り込むことを初めて提案した馬祖出身の立法委員、曹爾忠さんは次のように語る。馬祖は金門に比べて土地が狭くて人口も少なく、住民や台湾在住の同郷の多くは公務員なので、民間による商業投資といった形で馬祖からの小三通を後押しする力には限りがあり、小三通の試行にこぎつけるだけでも容易ではなかった。「私たちは、自分たちの力で一歩一歩進めていくしかないのです」と言う。
曹爾忠さんによると、現在までのところ、馬祖の民意代表が小三通を推進してきた最大の成果は、対岸の民間団体である「福州馬尾経済文化交流合作センター」との間で「両馬合意」に署名が交わされたことだという。
「台湾の中央政府は、小三通に関する方法と規則を定めただけで、積極的な行動や対岸との話し合いは行なっていません。これでは交流も往来も実現しないのです。ですから、私たちは自分たちで対岸との関係を作り、細部の問題を解決していくしかありません」と曹さんは言う。その話によると、中共側は最初は拒絶していたが、しだいにこちらの考えを受け入れ、さらには協力体勢が採られるまでになった。馬祖の代表と中共側は、すでに停泊する埠頭、人員、証明書類などの手続面の細部でも合意に達している。以前中共は「船単位での、団体での出入りしか認めない」と主張していたが、この壁も突破できたのである。
政府は全面的な配慮から慎重な態度を採っている。しかし、金門・馬祖という前線にとって、小三通は百年に一度あるかないかの発展のチャンスだ。また両岸がWTOに加盟すれば、繁栄は数年しか見込めないため、民間が積極的に取り組むのも無理はない。
馬祖の属する連江県の劉立群知事は、民意代表のやや先走った行為については評価を控えているが、それでも民意代表の積極的な行動によって、小三通によるメリットがようやく見えてきたと言う。
「馬祖は金門のように注目を浴びることはありません。ここは人口も少ないし、経済力もなく、交通も不便なので、小三通を本来の『離島建設』という方向から考えた方が、より長期的に取り組むことができます」と語る劉知事は、もし馬祖を両岸間の貨物や人間の中継地点にすれば、馬祖はその負担に耐えられないだろうと言う。しかし、馬祖は中国大陸に投資している台湾企業の後方基地となることはできる。ここに台湾企業駐在員の子女の学校を設置すれば、福州や馬尾などに駐在する1万人以上の台湾人ビジネスマンは、子女の教育で悩むことはなくなるし、これによって馬祖の教育文化事業を発展させることもできる。
対岸との貿易について、劉立群知事は、馬祖は大型デパートになる必要はなく小さなコンビニになれれば十分だと言う。「関税や売上税の減免といったメリットがあれば、海峡両岸の住民は将来的に馬祖で小額の貨物交易を行なうことができます。これによって馬祖が両岸の自由貿易区になれば、この地域の経済には大きなプラスになるでしょう」と語る劉知事は、このような状況であれば、正式な三通が始まった後も、大きな衝撃を受けて経済が衰退するには至らないはずだと言う。
小三通は、この地方を永遠に発展させる万能薬とは言えないが、それでも馬祖の人々は幸運だと言える。昨年、立法院で可決成立した「離島建設条例」の中で、毎年離島建設のために30億台湾ドル余りの予算が組まれることになり、三大離島の中でも最も面積が狭く人口も少ない馬祖に、その3分の1が当てられることになったのである。馬祖は、金門や澎湖と比較すると、建設面では大きく遅れているが、今回の小三通や博奕条項(離島にカジノを設置する計画)などの有利な条件が揃い、馬祖には強みが増えた。
「交通を改善し、観光産業を発展させるというのが、馬祖の人々の間では将来のコンセンサスになっています」と語るのは、連江県議会議員の曹以雄さんだ。今や馬祖は各界から注目されているため、むしろ目前の利益を長期的な発展へとつなげていきたいと考えているのである。
馬祖の人々にとって、長年の苦痛は空港の問題であり、これは小三通と観光産業を発展させるための最大のネックでもある。
現在、馬祖の対外交通は飛行機と船しかないが、馬祖は山が険しいため、現有の北竿空港の滑走路は890メートルしかなく、そのためランディングシステムを設置することもできず、肉眼に頼って着陸しなければならない。この空港に離着陸できるのは立栄航空の所有するDASH-8-200型という37人乗りの小型飛行機1機のみだ。そのため、霧や大雨などで視界が悪い時には空港を閉鎖せざるをえず、これまでに飛行機事故も2度起っている。
海上交通の面では、500人以上が乗れるフェリー「台馬輪」があるが、船体が古いため時化(しけ)の時には出航できない。船に乗る人は、出航日に電話をかけて確認しなければならないのである。
「その上、バスも問題があるので特産品を余所へ売ることもままなりません」と話すのは、馬祖特産の菓子「馬祖酥」を製造している「宝利軒」の高明中さんだ。馬祖の名産の知名度がなかなか上がらないのも、このためなのである。
地方自治体も交通の改善を差し迫った任務と考えている。劉立群県知事によると、新しい船については計画中で、新空港も建設中のため、小三通が始まったばかりのこの半年間は、馬祖にとっては厳しい時期だ。しかし、半年以内に交通の問題は一つ一つ解決される見通しである。
北竿空港では滑走路を東へ移す工事が進められており、この7月には完成する予定だ。工事が完了すれば滑走路の長さは1000メートル余りになり、DASH-8-300型という50余人乗りの旅客機が離着陸できるようになる。また南竿に建設中の新空港は、山や谷を平らにならしての工事が進められており、来年3月には1000余メートルの滑走路を持つ新空港が完成する。
戦地としての馬祖の任務が解除されて以来、それまで数万人も駐留していた兵士の数は数千人まで減った。かつて地元経済を「消費者」として支えていた軍人が激減したため、馬祖の人々は観光産業の発展によって地元経済を長期的に支えたいと考えている。交通状況が改善されるまでの半年間は厳しいが、馬祖の人々は、この半年を準備期間と考えている。
台湾の観光局馬祖国家風景区管理処の廖源隆処長も、馬祖の人々の着実な態度を目の当たりにしてきた。
「馬祖の観光資源の豊かさは誰もが認めるところです。植皮や林相も破壊されていませんし、それに『神話の鳥』と呼ばれる希少なヒガシシナアジサシが発見されたことは大きな話題になっています。また、ここの軍事施設は朝鮮半島の板門店よりも密集していますし、台湾、澎湖、金門とは違う閩東(福建東部)の漁村らしい特色もあり、媽祖信仰にとっても重要な場所でです。伝統的な集落も昔のまま保存されていて、そのどれもが馬祖観光の売り物になります」と廖源隆処長は言う。馬祖の優れた点はこれだけではない。我慢強く着実な住民の姿勢が、馬祖の観光産業を一歩ずつ推し進めているのである。
廖源隆処長は、金門と緑島を例に挙げて説明する。かつて金門と緑島への観光が開放されたばかりの時は、一大観光ブームが巻き起こり、業者がこれに乗じて、あっというまに旅館やレストランが林立するようになった。しかし、急激な開発と利益追求の結果、観光施設は供給過多となり、観光秩序は混乱し、今はどうにもならなくなっている。
「馬祖はこれらの前例を見て反面教師としているので、県は事前の周到な計画を求めており、観光業者もそれに協力的です。このような着実な態度には敬服させられます」と廖源隆さんは言う。
馬祖の人々の落ち着いた態度は、町並保存への取組みからも見て取れる。
数十年に渡って戦地とされてきたため、馬祖では古くからの集落がそのまま保存されている。中でも南竿島の牛角村、北竿島の芹壁村、そして莒光の福煕村は最も特色がある。これらの集落は閩東(福建東部)の典型的なスタイルを残しており、台湾の他の地域の閩南(福建南部)スタイルとは異なる。中国大陸の閩東地区では近年過度の開発により伝統的建築物がほとんど壊されてしまったため、世界中で、馬祖の集落にのみ閩東文化の伝統が残っているのである。
「私たちの町並保存活動は2年ほど前に始まったばかりです。初めの頃は住民からの疑問の声もありましたが、県が城郷ワークショップを設置して全体的建造という方法で保存を進めるようになり、住民には『町並保存は地元発展につながる』という観念を普及させてきたため、思いがけない効果が上がっています」と語るのは、県会議員の曹以雄さんだ。馬祖では過疎化が進んでいるため、祖先から伝わる家を誰かに守ってもらいたいと思っている人は多い。そのため住民の多くが先を争うようにして県と契約し、家屋や歩道の修築を進めているのである。
観光産業や小三通による発展への見通しは明るいが、多くの住民が心配しているのは、単純な経済発展と町並の保存が、馬祖を綺麗なだけで「中身のない殻」にしてしまうのではないかという点だ。そこで県会議員の曹以雄さんと陳貴忠さんが発起人となり、芸術家を伝統集落に招くという活動も行なわれた。
また、馬祖県立文化センターの邱金宝主任は、馬祖では若者の流出が深刻で、今の子供たちは方言である福州語もあまり話せないため、伝統文化の継承も難しくなっていると言う。
これらの課題に対して、地元の教員や公務員40余人が「雲台楽府」というクラブを結成し、馬祖に伝わる戯曲や歌謡の整理や創作を始めた。彼らは馬祖の各離島を巡って公演を行ない、また学校でも雲台楽府が整理した地方の戯曲を教えるようにしている。
「雲台楽府は1994年に結成され、初めは単に馬祖に伝わる福州語の民謡だけを整理して練習しましたが、その後、団員が口承だけだった童謡の『月光光』を楽譜に書き起こし、楽器を練習して歌えるまでになったのです」と理事長の潘建国さんは言う。99年の夏、彼らは福州を訪れ、向うの戯曲学校で『拾玉鐲』や『珍珠塔』などの福州地方の戯曲を学んだ。戻ってきてからは、これに自分たちの想像を加え、さらに台湾オペラである歌仔戯の振付けなども学んで、少しずつ文化保存に取り組んできたのである。
この雲台楽府のメンバーで、馬祖酒廠(造酒場)の廠長でもある劉潤南さんは、福州の折子戯(一幕芝居)はもともと非常に開放的な形式を持っていて、馬祖では半世紀にわたって伝えられていなかったが、今では馬祖の人々が再創作に取り組んでいると言う。「伝統の精神と地方言語の保存こそ雲台楽府の最大の目的です。この雲台楽府の活動が次の世代になって成熟し、新しいタイプの地方芝居が生まれれば、いつか国立劇場で上演することも不可能ではないでしょう」と語る。
馬祖は人口も少なく土地も狭いが、小三通と観光産業の発展、そして文化保存などを通して、人々は全体的な考慮をしながら歩んでいる。
媽祖の遺体が発見された地に建てられた馬港天后宮は、いま再建中だが、そこから遠からぬところに軍の海軍陸戦隊が守る「鉄の堡塁」があり、これらが観光名所となった。海から風が吹いてくると、かつてここで戦死した英雄たちの魂はまだ去っていないように感じられる。だが後ろの山の、かつて故蒋経国総統が前線を指揮した坑道司令室には緑のツタが絡まり、インゲン豆が実っている。下校した子供たちは「月光光、十五夜お月さん、月の姉さん嫁に行く…」と学校で習った童謡を歌いながら家へ帰っていく。家では母親が、対岸の福州から小三通で輸入されたシイタケを入れた鶏のスープを作り、家族の帰りを待っている。
馬祖はそれぞれの時代ごとに神話を積み重ねてきた。ここの人々は、時代のターニングポイントで常に独特の役割を果たしてきたのである。そして21世紀が始まった今、馬祖は小三通や離島建設という重要な変化を迎えた。控え目に福州語を話し、閩南人とはずいぶん雰囲気の違う馬祖の人々は、これまでと変らずに、黙々と一歩ずつ着実に未来の神話へと歩み続けている。
馬祖の観光案内
◎ 面積:
29. 52平方キロメートル
◎ 人口:
戸籍上の人口は7000人近いが、通常馬祖に暮らしている人は、その約半数。
◎ 島の分布:
馬祖は連江県に属し、五つの島、四つの郷(町)から成る。そのうち南竿郷は県の政治経済と文化の中心で、馬祖の大部分の観光名所や特産品、食べ物などもここに集中している。だが、北竿郷、莒光郷、東引郷などの地域にもそれぞれ特色がある。
観光スポットや名物としては、北竿の芹壁村や魚麺、莒光の漁村の風情や二級古跡の東閩灯台、東引の奇岩や馬祖酒廠東引工場などがある。
◎ 交通手段:
台北から馬祖までは立栄航空の旅客機が一日に5便飛んでいるが、ほとんど常に満席のため、早めの予約が必要。4〜5月の霧の出やすい時期には出発が遅れたり、運行を見合わせたりすることが少なくない。空の便の他には、基隆港からのフェリー「台馬輪」があり、馬祖まで約8時間の行程だが、船の出る時期は不定期なので、船会社に問い合わせる必要がある。馬祖から基隆までの船便については、連江県政府が地元で無料で発行している「馬祖日報」を参考にすることができる。
離島間の移動は、南竿島から北竿島までは船で10数分、莒光までは1時間、東引までは2時間かかる。ただし、これら離島間の船は時化(しけ)の時には運行停止になることが多いため、離島への旅を予定している場合は、あらかじめ船会社に確認しておいた方がよい。この他に、離島へのヘリコプターの便もあり、こちらは時化の影響は受けないが、1日に1便のみなので注意が必要だ。
より詳しい旅行情報は、観光局馬祖国家風景区のホームページを参照。

牛角村に明りが灯る。どの家も遠来の旅を歓迎しているかのようだ。


馬祖では兵士の姿をよく見かける。写真は海軍陸戦隊の早朝ランニングの

馬祖各界のエリートが集まって結成された「雲台楽府」は、古くから地元

勤勉な馬祖の人々は、県庁前の広場にも野菜畑を作り、土地を十分に活用している。写真は劉立群知事と農家の人が収穫について話している様子だ。

捧げられる線香が善男善女の気持ちを表している。馬祖の人々は、小三通が始まった時、馬港天后宮に祭られている祖像の衣を新しく変え、神像を一時地下室に祭って加護を祈った。

4月初旬、馬祖の商業貿易視察団が、福建省馬尾での「企業招致会」に関する話合いから戻ってきた。写真右は、馬祖の福澳港で訪問団の帰還を出迎える連江県の劉立群知事だ。