
昔から宝剣は英雄に贈ると言う。武侠小説の主人公は、ほとんどが剣を自分の重要な武器としており、一振りの宝剣は武の世界である武林の至宝とされる。どれほどの江湖の豪傑がそのために命を賭けたことだろう。映画「グリーン・デスティニー(臥虎藏龍)」のストーリーも李慕白の青冥剣をめぐって展開する。武侠小説の主人公である大侠はなぜいつも剣を片手に行くのだろうか。剣は中国の伝統文化においてどんな役割を果してきたのだろう。中国の剣の文化と、日本の刀の文化とは、その精神にどのような違いがあるのだろうか。
中国には十八般武器と言う通り、数多くの種類の武器があるのだが、大侠は宝剣のみを好む。美術刀剣保存協会の黄徳伝理事長に伺うと、それは剣の製造や造型から来ていて、「剣は両刃でその中心が厚くなっているために、焼入れの加減が難しくて曲りやすいのです。刀よりずっと製作が難しいと言えます」と話してくれた。宝剣のコレクションを有する黄理事長の話によると、秦漢に作られた初期の鉄器では尚さらのことで、何層も鉄を重ねて鍛造してから刃を焼入れる技術はすでに発達していたものの、当時の純度の低い鉄は不純物を除くのが難しかったのでいろいろ欠陥が出やすく、優秀な剣ができる比率は刀の百分の一ほどであったと言う。宝剣はこのように稀少であって得難かったために、その威力はかえって伝説化されていった。伝説の名剣は製造の最後の段階でいつも困難に突き当ってしまい、なかなか成功しない。だからこそ刀工干将とその妻莫邪が炉に飛び込み、わが身を犠牲にして剣を鋳たという話が出来あがったのである。
宝剣は得難く、伝説が付きまとうためにその地位は高まって行く。しかし、剣が「百刃の君」と称されるには他にも理由がある。審美的な観点から見ても、流星錘や大弯刀、ヌンチャクなどの中国のほかの武器と比べると、すっきりと長く優雅な剣はずっと美しい。六芸と言って文武合一を重んじた古代では、将軍も宰相もすぐれた剣を身の回りに置くことが好まれていて、それが次第に伝統になっていったのである。
それに武侠小説の大侠と言えば、所定まらぬ漂泊に暮し、いつも身軽で神出鬼没でなければならないという、いかにも颯爽としたイメージなのだから、優雅に剣を背負っていてこそ壮士の意気が感じられると、北京大学中文科の陳平原教授も話す。陳教授に言わせれば、重たい大刀や双斧を持っていては身軽どころではなくなってしまう。よく「書剣飄零」と言うが、文学作品においては書と剣を配して行雲流水の漂泊と、高雅な雰囲気を作り出すのである。
見た目ばかりではない。槍や刀と比べてみても、剣は武器の中でも扱いが難しいと、6歳の時から武術の基本を学び始めたという剣匠の阮子星さんは言う。武器は両手の延長から出来あがってきたものなので、武術を学ぶ人はまず拳法から始め、それから刀、棍棒、槍と続いて、最後に剣を学ぶのだそうである。剣は先端で敵を突くのが主になるので、内力という内部の気が充実していなければならない。気が漲っていれば剣を揮ったときに揺れ動かず、力が全部切先に集中していくのだが、気が充実していないと、手の動きや筋肉の力の凝縮に影響し、突いても力がこもらないのだと言う。武侠小説の主人公が常に剣を頼りに世を渡るのも、その気の力が深いことを意味している。
さらに大侠が剣を使う姿や技を見てみよう。力任せに振り上げて切り倒す刀や斧と比べると、突きや払いを主とする剣の動きはすっきりと流れるようで、野蛮な感じも覇気も薄い。剣はさらに舞踊芸術にも応用され、唐代の公孫大娘の剣舞は華麗な舞姿で四方に知られた。今日でも公園などで、精神修養と健康のために剣舞を習う人を見ることが出来る。
歴史においては、前漢の末になると振り上げ切り倒す刀が突き払う剣に取って代って戦場の主要な武器であった。剣は戦場では使われなくなったが、その美しく優雅な形やイメージ、それによい剣は手に入り難いなどの理由から、生活と文学の中で重視されるようになった。
武を重んじた唐代において、剣を詠んだ詩人も少なくない。崔顥は「剣に仗りて門を出て去る」と詠み、阮籍は「剣を揮って沙漠に臨む」と、剣を豪気の象徴とした。奔放無頼の李白はさらに剣を愛し、15歳で剣を学んでから侠客を「十歩で一人を殺し、千里行くを留めず」と羨んだ。
「剣は戦争の舞台から退いてから、個人の意志を表現し、精神を投射するものとなったのです」と、淡江大学中文科の林保淳助教授は言う。宋朝の辛棄疾の詞に「酔っては灯火を挑げて剣を見て、角笛の陣に帰るを夢む」とあるのは、人は老いを感じるようになると、夜毎に剣を撫でては、若かりし頃の軍功の華やかさを思い、北に敵を討たんとして果せなかった壮志を嘆くのであると解釈する。この時に、人が宝剣を抜き出せるかどうかが、これから志を果せるかどうかに関る。剣が鞘の中にあって鋭い切先を見せられないときは、ただそれを思って感慨に耽るだけである。
剣と人生は重ね合さり、文人侠客は剣を眺めて自分を見る。剣は道具ではなく生の全体であるから「剣あらば人あり、剣亡くば人亡し」と言う。戦国の策士馮諼は貧窮して人に世話になり、人の顔色を伺う毎日だったが宝剣を手放すことは無く、知己として扱って生死を共にした。時に姿が見えないと「長鋏、帰って来い」と呼びかけたと言う。
歴史に見える大人物は、みな剣を佩びていた。孔子の画像を見ると、腰には紫薇剣が見える。市井の出身の漢高祖は、剣を執って白蛇を切り義軍を起した。「冷面殺手」と呼ばれた宋の時代の名判官包青天は尚方宝剣を持ち歩き、悪者を切り捨てて正義を示したのである。色好みの剣仙呂洞賓は、空を飛び地に潜れるという紫陽剣を負っていた。
「剣は文化的意味を持つ武器で、武侠文学の侠客は剣を手にこの世間を渡っていく」と、陳平原氏は『千古文人侠客夢』に書いた。武侠小説が特に剣を重視するのも不思議ではない。その昔から数知れぬ壮士が剣術の鍛錬に血を吐くような苦労をし、多くの文人が宝剣の輝きを賛嘆してきたのだから、宝剣こそが文武を兼ね備えた侠客の決闘にふさわしい最も文雅の香がする武器なのである。「侠客が剣を手に独行して、世の中の不正を正し、恩を返し仇を晴らしていく。そこでは剣は単なる殺人の道具であるのではなくて、大侠の精神的象徴、人格の表現、文化の伝統なのである」と陳平原氏は書いた。
侠と儒が合一する伝統の下で、文武に秀でているべき侠客は武徳を守り人の道を勧めなければならないが、そこでも剣は最良の友である。両刃の剣は中庸の道を象徴し、武を学ぶものに自分の行為の節制を促すと、武芸に精通する阮子星氏は言う。「剣は検」と言われる通り、剣は自身の行為を見なおし点検する内省を象徴するものでもある。剣を学び始めると、師は弟子に自分の行為の反省を促し、手に剣があっても心に殺意は無いという境地を会得しろと再三戒めるのである。孔子は紫薇剣を手に持っているが、そもそも武で知られた人ではない。こういった点が中国の剣の文化と、日本の刀の文化の違いである。
日本刀は刀と剣の機能を合せもち、中国の剣より覇気が濃いように見える。また禅の影響を受けて「日本では剣道を個人の鍛練の具とし、剣道で生の最高の意義を体得して人生を悟るのです」と、武術の先達諸葛青雲氏は考える。日本人の剣道は人の道で、剣道により生の境地と理想を追求するが、この境地は人それぞれの考え方や求めるもので異なり、個人的なものと言える。
「日本の文化では人が一生で求めるのは自己の達成ですが、この達成は他人とはあまり関りないので、追求の過程で剣客は人を殺して剣を試すなど、非道徳的手段に訴えることも可能なのです。そこで剣客の考え方が偏っていると、剣道も魔道に落ちるのです」と、林保淳助教授は日本の刀の文化を分析する。
中国の武侠小説では決闘の技の数々を詳細に一つ一つ描くが、日本の時代小説では剣は一撃で敵を倒すものでなければならず、その勝負は一瞬で決ってしまい、いかにも冷静で峻厳に見える。中国の大侠の剣が、常に温もりと感情を持っているのとは異なる。豪放不羈の無頼派武侠小説作家古龍は、その主人公西門吹雪が偽者の丹鳳公主に剣を使わせなかったと書く。後ろから人を襲うのは掟破りで、そんな人間は剣を使ってはならないからである。小説の中の宝剣は徳のあるものがこれを得て、徳の無いものは失う。それというのも剣を誤って使うと、天罰を受けて滅ぼされると言われているからである。
いろいろ言っても、剣の本質は武器である。武侠小説の最大の魅力と言えば、様々な武器を用いた決闘の場面で、各流派の特徴ある技が展開され、詳述されるところにある。「特に最近の武侠小説では、そのほとんどが決闘場面の連続ですが、これを読者も一番楽しんでいるのです。剣道の各流派、剣の奥義書、剣の学問などが小説を通じて広く知られるようになりました」と陳平原氏は言う。だから武侠小説では今も、大侠の剣術はさらに進化を続けている。
現代武侠小説の第一人者である金庸の筆になる主人公の剣術をいくつか見てみよう。蝿も殺せない性格と言われる『天竜八部』の段誉だが、偶然の機会から「六脈神剣」を会得してしまう。『笑傲江湖』の令狐沖は思過崖で師匠筋の風清揚から無敵の「独孤九剣」を授けられ、『神雕侠侶』の楊過と小龍女は二人で「玉女剣法」の稽古をしていた。『倚天屠龍記』を読むと、張無忌は敵の目の前で悟りを開くという能力を発揮し、太極剣を学びながら使って、各流派を完膚なきまでにやっつける。
明朝に入ってからは気功が武術に取り入れられて、気を充実させた内力が剣を使うための絶対条件になる。強大な内力を持つと、段階を追って悟る漸悟ではなく、張無忌のように一瞬のうちに悟れる頓悟を誰もが開けるようになり、さらに精進すると、有形から無形の剣に至って「精気の致す所、草木も皆剣と為せる」という境地にたどり着く。真の大侠にとって、手に宝剣があるかどうかは大した問題ではないのである。

両刃の剣の製作は難しいため、これが偏りのない儒侠の精神の象徴となり「百刃の君」と称されるようになった。(卜華志撮影)