6月26日、アメリカのクリントン大統領とイギリスのブレア首相は、各国が共同で10年をかけて行なってきた「国際ヒトゲノム計画」における、ヒトゲノム配列の概要解読終了を宣言した。そして同じ時、アメリカのセレラ・ジェノミクス社も、ヒトゲノム地図がほぼ完成したと宣言し、同社の研究資料を公表すると発表した。
注目すべきは「生命の設計図」と言われるヒトゲノムの解読において、台湾の「栄陽チーム」が第四染色体の塩基配列の解析を担当し、国際計画に貢献していることだ。
このヒトゲノム計画の他に、台湾のもう一つの研究グループ、中央研究院植物研究所も国際協力による「イネゲノム解析計画」に参加している。
ゲノム計画とは何なのだろうか。それは生命科学において、どのような重要性を持ち、人類の未来の生活に、どのような変化をもたらすのだろう。生命の設計図が明らかになったら、どのような影響が出るのだろうか。
今年5月8日、台北栄民総合病院と陽明大学の多数の教授から成る「栄陽チーム」が、2年をかけて進めてきた「ヒトゲノム塩基配列解読計画」の概要解読終了を発表した。
栄陽チームの成果は、全面的に高く評価され、マスコミも大きく報道したため、多くの人がヒトゲノム計画に関心と興味を抱くようになった。
ヒトゲノム計画は生命科学において重大な影響力を持つ。バイオテクノロジー・センターの江晃栄マネージャーは、40年代に原爆製造に至った「マンハッタン計画」、60年代に月面着陸に成功した「アポロ計画」に続いて、90年代のヒトゲノム計画を「生命科学の月面着陸計画」と喩える人もいると言う。
国家衛生研究院の呉成文院長も「史上最大の革命」という言葉でゲノム・サイエンスを形容し「ここ40年、分子生物学と遺伝子工学の誕生で、生命科学の観念が変りました」と言う。
ゲノム計画の中で、最も注目を浴びているのはヒトゲノムとイネゲノムの二つだ。
1990年から、アメリカの国立衛生研究所とイギリスのウェルカム財団が中心になって、ヒトゲノム計画が正式に始まった。この計画はアメリカ、イギリス、日本、ドイツ、フランス、中国(大陸)をはじめとする18ヶ国が協力して進めており、本来は2005年に完了する予定だった。しかし、ヒトゲノムの解析において民間企業のセレラ・ジェノミクス社との競争が激しくなったため、国際チームは解析のスピードを上げ、今では2003年には正確な解析が完了すると見られている。そうした中、台湾の栄陽チームも2年前から第四染色体の塩基配列の解析に取り組んできた。
この他、世界で初めての大規模な食糧作物ゲノム解析の国際協力計画として「イネゲノム解析国際協力プロジェクト」が進められている。これも2003年までにイネゲノムの全塩基配列を解読し、将来の食糧危機解決の方法を探ろうというものだ。
これは、日本、イギリス、フランス、アメリカ、シンガポール、中国大陸、タイ、カナダ、インド、韓国、台湾による共同計画で、中央研究院植物研究所が昨年2月に参加し、イネの第五染色体の塩基配列を担当している。
「これは歴史上、永遠に消えることのない記録となるでしょう」と語るのは中央研究院植物研究所の蕭介夫所長だ。イネゲノムの国際協力プロジェクトへの参加は、学術的地位やイメージの向上につながるだけでなく、技術交流ができ、最新の資料が手に入るなどのメリットもある。
だが、国際ヒトゲノム計画に参加している栄陽チームの方は、それほど幸運ではない。台湾が国連に加盟できないのと同じように、栄陽チームの努力や成果も、国際的にあるべき評価を得られないのである。しかし、陽明大学遺伝学研究所の蕭広仁教授は「懸命に努力して、私たちに能力があることを証明し、やるべきことをやるだけです」と言う。
では、ゲノムとは何なのだろうか。
生命の遺伝単位である染色体は、二重らせん構造のDNA(デオキシリボ核酸)から成っている。DNAは細胞の遺伝情報を持つ化学物質からなり、A、T、G、Cの四種の塩基があり、AとT、GとCという形で対を成している。ゲノム計画とは、この四種の塩基からなる遺伝暗号を解き明かそうとするものだ。
ヒトの場合、23の染色体と30億の塩基対を持っており、栄陽チームが担当する第四染色体には2億の塩基対がある。栄陽チームは、その中の一部(q22-q24)の千万単位の塩基配列の解析を行なっている。
陽明大学遺伝学研究所の周成功教授によると、彼らが第四染色体を選らんだのは、台湾大学内科教授の陳培哲氏の研究によるという。台湾では肝臓ガンが最大の死因だが、陳教授の研究により、肝臓ガン患者の第四染色体にしばしば欠陥や変異があることがわかっているからだ。
イネゲノムの方は、12本の染色体に4億3000万の塩基対があり、その規模はヒトの8分の1だ。中央研究院植物研究所のイネゲノム・チームは第五染色体の解析を担当している。同研究所の鄔宏潘研究員によると、第五染色体を選んだのは、それがあまり長くなく、遺伝子の位置も比較的明確であり、また第五染色体には老化、糖類代謝、タンパク質の貯蔵、酵素や光合成などに関わる遺伝子が含まれているからだ。この第五染色体の研究により、台湾のイネの最大の病気である白葉枯病に関わる遺伝子が発見できる可能性もある。
塩基配列解析という作業の大きな特色は、チーム制によるという点だ。栄民総合病院と陽明大学による「栄陽チーム」にしろ、中央研究院植物研究所のチームにしろ、それぞれ異なる専門分野を持つメンバーが集まってチームが形成されている。
「一人の力で研究する時代は過去のものとなりました」と中央研究院植物研究所の陳慶三研究員は言う。
中央研究院のイネゲノム解析チームのメンバーは次のような顔ぶれだ。長年イネの研究に携わり、遺伝子工学や分子生物学、そしてバイオケミカルの分析を専門とする周徳源氏、塩基配列分析の経験が豊富な陳慶三氏と邢禹依氏、イネの品種や遺伝情報に詳しく、コンピュータによる分析に長けた鄔宏潘氏、そして植物の遺伝子機能に関する研究経験が豊富な蕭介夫所長が全体の指揮に当っている。
ヒトゲノム解析に取り組む栄陽チームの方は、栄民総合病院教学研究部の周成功研究員と張泰階研究員、陽明大学の蕭広仁教授、蔡世峰教授、楊永正教授ら5名が中心となり、さらに三つの実験室の40人余りの助手が共に働いている。
シーケンシング(塩基配列の決定)は非常に細かく繁雑で、重複性の高い作業だ。作業全体の流れを見ている蔡世峰氏によると、栄陽チームではすべての塩基配列について10回ずつ繰り返し作業を行なっている。繰り返し行なうほど、漏れや隙間が少なくなり、配列の連続性が高まるからだ。蔡氏の話によると、アメリカの解析結果に比べ、栄陽チームによる解析は連続性が5倍も高いという。アメリカのものは100の塩基対の中に10〜20の隙間があるが、栄陽チームのものは3〜5だけだ。
実験室で塩基配列反応が出された後、最後はコンピュータによって配列し、染色体の配列と組み合わされる。
栄陽チームでゲノム解析を担当する楊永正氏によると、生物情報の特色は量が多く、長く、重複性が高いことだという。「有用な情報が雑多な情報の中に隠されているため、いかにして大量の情報を管理分析し、生物研究と医学研究の加速に役立てるかがゲノム解析後の重要な課題です」と言う。
栄陽チームは1000万個の塩基の中から、200余りの遺伝子を発見した。楊永正氏によると、その中の30は、すでに知られている(データバンクに資料のある)遺伝子で、156は資料が不完全な遺伝子だが、研究者に最も興味を抱かせるのは、まだいかなる資料も確立していない36のプログラム予測遺伝子だという。これらの存在を証明し、その機能を理解することが今後の重要な課題となる。
コンピュータによる予測の結果は、さらに実験室で証明する必要がある。コンピュータによる分析結果の鑑定を担当している陽明大学生物医学技術研究所の張泰階副教授によると、プログラム予測遺伝子の中の2つは、すでに特異な働きをすることが発見されていて、その一つは肺ガン、乳ガン、胃ガン患者10人のうち、7人のガン組織から発見されている。この重大な発見は今後の継続的研究の大きな目標となる。「バイオ・メディカルによる病気の研究が今後の大きな方向になるでしょう」と張泰階氏は言う。
「ゲノム研究は21世紀の最も重要な研究方法です」と周成功氏は言う。川上から川下までの流れの中で、さまざまな専門分野が結びつき、栄陽チームはすでに研究の方法と構造を確立している。「今後、いかなる生物のゲノムについても、経費さえあれば解析研究が可能です」と言う。
栄陽チームのゲノム解析の実力を軽んじることはできない。陽明大学遺伝学研究所の蕭広仁教授によると、現在世界では、1年間に千万単位の塩基配列を解析できる機関は20〜30ほどしかなく、栄陽チームはその中の一つに挙げられる。蔡世峰氏も、ヒトゲノムのシーケンシングという作業の能力において栄陽チームは世界の0.3パーセントを占め、ドイツ、フランス、中国大陸のそれに相当すると説明する。栄陽チームの能力は、国際ヒトゲノム計画に参加している6ヶ国に続くもので、世界第7位に数えられる。
では、シーケンシング能力にはどのような重要性があるのだろう。
ゲノム・データバンクはゲノム研究の基礎である。近年、遺伝子研究は従来の単一遺伝子の研究から、複数の遺伝子の組み合せへの研究へと進んでいる。蔡世峰氏によると、単一遺伝子の研究は最も重要なものとは言えず、これまでの研究は「木を見て林を見ず」という欠点があった。塩基配列が決定すれば、遺伝子と遺伝子との間の関連がより明確になるのである。
国家衛生研究院の呉成文院長は、我が国はヒトゲノム解析に加わらないわけには行かないと言う。人種によって生物学的に相違があるため、私たちは自国のヒトゲノム・データバンクを確立する必要があり、そうすることで、はじめて我が国に特に多い肝臓ガンや上顎ガンなどの研究に役立つからだ。
ヒトゲノム解析の結果は世界的に登録され、インターネットで公表され、公開のデータとなる。ただし、公開されるのは解析された塩基配列のみで、その後に発見された遺伝子や遺伝子と疾病との関係などは私有財産となり、研究者の知的所有権として特許を申請することができる。したがって、ゲノムの塩基配列が決定しても、それで研究が終るわけではなく、むしろその後に遺伝子の機能に関する研究の競争が始まるのである。
蕭広仁氏によると、ゲノムの塩基配列の決定は染色体地図を作成するようなものに過ぎないという。この地図は人工衛星から地球を見るようなもので、これを道具として活用し、その中に隠された情報と疾病との関わりの謎を解くことこそ科学者の目的なのだ。そのためゲノム研究の背後には無限のビジネスチャンスと利益が潜んでいる。
ヒトゲノムの場合、その全てが明らかになれば、これまで不治の病とされてきた遺伝病や免疫不全性疾患やガンなどに、新しい治療の可能性が開かれると期待されている。
特に、ハンチントン舞踏病や再生不良性貧血など5000種以上の病気は、単一の遺伝子の変化によって生じるため、将来的には遺伝子治療が現在の骨髄移植などに取って代り、大幅に治癒率が高まる可能性がある。
遺伝子治療は近年、大きく期待されており、現段階では手の施しようのない病気の治療に新しい機会が開かれると見られているのである。
しかし昨年9月、アメリカで18歳の青年が遺伝子治療実験中に亡くなって遺伝子治療に関する論争が起り、中には停止に追い込まれた研究計画もある。しかし、今年4月にフランスの研究者が、遺伝子治療によって3名の遺伝性免疫不全疾患の男児を有効に治療したことを発表した。これはここ十年来、世界中で行なわれてきた4000件余りの遺伝子治療の中で初めての重大な進展であり、人々は再び遺伝子治療に希望を託せるようになった。
これと同様、イネゲノム解析にも牽引車としての役割があり、関連する他の領域の発展を促すと見られている。
食糧不足が将来の重要な課題とされている中で、イネはアジアで最も重要な食糧であり、世界でも小麦に続いて生産量第2位の食糧作物として重要な地位を占めている。このイネの遺伝暗号が解読されれば、病害の防止、品種改良、生産量増加などの研究の基礎となる。
イネゲノムの解析は他の作物への理解を加速することにもつながる。
中央研究院植物研究所の邢禹依研究員によると、イネゲノムは、あらゆる作物の中でも最も規模が小さい。小麦のゲノムはイネゲノムの37倍もあり、ヒトゲノムより大きい。またイネ科の植物の遺伝子構造は似通っているため、イネゲノムが解読されれば、コーリャン、トウモロコシ、サトウキビなど他の作物の研究にも役立つ。
ヒトゲノムの栄陽チームも、イネゲノムの中央研究院チームも、近年シーケンシングで非凡な成果を上げているが、その背後には人知れず不安をかかえている。このままでは台湾は、将来のゲノム・サイエンス競争に勝ち残れなくなる可能性があるのだ。
「いま台湾は、ここ8年で苦労して確立した地位を急速に失いつつあります」と語るのは蔡世峰氏だ。台湾では、2年余り前にゲノム解析の準備が始まったが、ここ18ヶ月の間に、世界各国はスピードをさらに速めてきた。時間的に速くなっただけでなく、投資額も増えている。しかし台湾は、こうした世界の変化に対応していない。「鉱山にはたくさんの宝が隠されていて、他の人はすでに新しい設備を使って採掘しはじめているのに、私たちは従来のチームで従来の道具を使っているままなのです」と、蔡世峰氏は台湾の現状を形容する。
よい仕事をするには、まず優れた道具が必要だ。シーケンシングのための設備投資からも、その違いが見て取れる。蔡世峰氏によると、ここ1年、世界では1000台に上る毛細管電気泳動装置が新しく設置されているが、台湾には1台しかない。台湾海峡の対岸は1年前にゲノム計画に加わったばかりだが、現在すでに40台の新型設備を備えており、近々さらに100台まで増やす予定だという。
こうした最先端の設備の他に、基礎研究の成果も評価の指標になる。
周成功氏によると、世界の科学界で最も権威のある雑誌「ネイチャー」と「サイエンス」には毎年2000以上の論文が発表されているが、ここ5年来、台湾の論文は1〜2編しか掲載されておらず、生物医学界のものは一つも掲載されていない。「全体的な成果が少なすぎます」と語る周成功氏は、台湾全体の分子生物学研究は、アメリカの一流大学1校のそれに及ばないと言う。遅れていることを正直に認め、それを正視する必要がある。
バイオテクノロジーの領域で、台湾はどのような役割を果たすべきなのか。これは根本的な問題であり、同時に関係機関が真剣に考えるべき問題でもある。「このままでは取り残されてしまいます」と語る周成功氏は、政府も学術界も、自分たちが遅れているという事実を正視し、追い付く努力をしなければならないと言う。
中央研究院の李遠哲院長は、行政院の第四次バイオテクノロジー産業戦略会議で、科学研究を発展させるには二つの大きな方法があると語った。一つは、科学者に経費を提供して自由に研究させるという「放牧型」、もう一つは大きなチームを組織し、重要な方向に向けて懸命に努力させるという方法だ。我が国の国家科学委員会が現在採用しているのは放牧型の方法だが、放牧する面積は狭く、牧草も少なく、どの牛も満腹にならないのである。
蕭介夫氏によると、海外の産業界では研究計画への投資が非常に盛んだが、台湾の産業界は、こうした面では保守的だと言う。政府の限られた予算だけに頼っていたのでは突破は難しい。だが最近、李遠哲氏が企業界から30億台湾ドル近い資金を募ることに成功し、中央研究院の先端技術の発展に投じられることになっている。これにはヒトとイネの遺伝子機能の研究が含まれている。
「向上か下降か」と蔡世峰氏は、今年の総統選挙以来流行しているスローガンを引用する。台湾のゲノム研究は今まさに成否の分かれ道に立たされていると言えよう。世界中の人々がヒトゲノムの地図完成に歓声を上げている時、栄陽チームのメンバーは複雑な思いをかみしめている。