金を沈めるが如き大事業
日本統治時代、台南で製薬会社を営んでいた盧顕さんという実業家がいた。盧さんは引退後に澎湖へ戻り、西嶼小池角に「虎目石干見」を築いたところ、母親がその壮大な事業を「この虎目造りは、まるで金を海に沈めるようなものね」と表現したという。石干見がいかに大きな経済的価値を持つかを端的に示す言葉だろう。しかしこの石干見の位置が、他の人が魚群を追い込む際の妨げになってしまったため、地域で話し合いが行われ、石干見の持分の仕組みを取り入れることで解決が図られた。地元の人々が争いを収めるために発揮してきた知恵と柔軟さが表れている。
盗漁や台風による損壊などの問題が起きた際には、そのまま放置することはできず、宗族の長老や廟の神の前で決着をつけることもあった。
桃園石干見協会の監事・許宏喆さんによると、許さんの祖父が牛を使って田を耕していた頃には、1基の石干見が1甲(約1ヘクタール)の田畑に匹敵する、いや、それ以上の価値を持っていたという。潮の満ち引きが1日に2度ずつあるため、毎日漁が2回でき、石干見の年間漁獲高は1甲の土地の収穫高を上回っていたのだ。
もはやかつてのような漁獲の機能は果たさなくなったものの、石干見には今なお独特の歴史文化と、持続可能性のための知恵が息づいている。李教授が語る。「多くの世界的研究者が台湾を羨ましいと言います。それは石干見に関する文献が数多く残されているだけでなく、匠たちが技術を受け継いでいるうえに、若者が文化保存に取り組み、政府機関までが観光プログラム導入を進めているからです。石干見文化の保存と継承において、台湾は世界一といえるでしょうね」

石干見の研究に20年以上取り組む李明儒教授。台湾の石干見文化の保存と継承は、世界に誇れるレベルだと考える。(莊坤儒撮影)

李明儒教授が保管する吉貝嶼の凹石干見の私文書。石干見の所有者らによる自主管理の記録が残る。

石干見の見回りの際には小さな網を持っていき、小さめの魚を捕ることもある。

澎湖県白沙郷吉貝嶼の外石干見。石干見の囲い部分は、ハート形をしているものが多く、そこから2本の“脚”が延びる。この脚は、潮流や地形に合わせて直線だったり弧を描いたりと、地域ごとに異なる。