「私は誰なのか?」
堂々と自らを語り、さわやかに笑う布拉瑞揚を前にすると、以前はシャイで人づきあいが苦手だったとはとても思えない。彼は高校の時に台東の山地から高雄へ移った。全校で原住民の生徒は彼一人だけで、言葉に訛りがあるため、なかなか口を開いて話すことができなかったという。
「以前は自分の中にこもって一人で創作していましたが、台東に戻ってからは自分らしく肩の力を抜けるようになりました」と、台東が彼の心の扉を開かせたと語る。すべては「私は誰?」という問いから始まった。都会のルールは彼を型にはめ、謹厳な布拉瑞揚を作り出したが、故郷の大地を踏み、原住民青年たちと一緒に働くことで、彼は楽天的な天性を取り戻していった。
布拉瑞揚舞踊団は、台湾の原住民族各族から成り、正規の舞踊教育を受けていないメンバーが重要な役割を果たしている。以前の振り付けの仕事では、まずダンサーたちにテーマを与え、それぞれが稽古場の隅で自身の肉体でそれを解釈し、10分後には一人ひとりが5分間の表現素材として発表するというプロセスを踏んでいた。一作品の制作期間は通常1ヶ月で、10時間で完成させなければならないこともあり、ダンサーとじっくり磨き上げる時間もなかったという。一人で頭を絞って振り付けを考え、稽古場でそのまま指示を出して完成させることもあった。
台東へ戻ったばかりの頃、布拉瑞揚はこの習慣で振り付けを行なおうとした。メンバーたちに海というテーマを与えたが、10分、30分たっても誰も答えを出せない。幾度か試みた末、メンバーからこう言われた。「先生、イメージしろなんて言わないでください。山へ行って働きましょう」「台北の頭で仕事をしないでくださいよ。これだと、求めるものは永遠に出てきません」と。メンバーの正直な言葉で布拉瑞揚の目は覚めた。彼らは正統の舞踊教育を受けたダンサーではなく、身体の真の感覚をインスピレーションとしていることに気づいたのである。
そこで彼は、メンバーを海辺に連れていき、波が体に当たった時の身体の変化を感じさせ、また集落で整地や収穫などを行ない、昔からの労働を肉体の養分とした。こうした生活を通した学習により、舞踊団の作品は、コンテンポラリーダンス特有の大衆との距離感がなく、心を感じさせるものとなった。ダンサーの身体を通した表現は、劇場内でも太平洋の風を感じさせる。
布拉瑞揚は順風満帆な振付師としての仕事を辞めて台東の旧製糖工場に稽古場を設け、故郷で原住民族による舞踊団を発展させる夢に向かって突き進んでいる。