
5年前、2009年の台風8号による八八水害で、高雄甲仙は甚大な被害に遭った。それから2年の後、甲仙小学校の綱引チームは、決してあきらめない精神で人々に希望をもたらした。
コミュニティと学校と住民が一体となって緊密につながることで、甲仙は傷を乗り越え、新しい姿でよみがえろうとしている。
高雄の市街地から国道10号線を通り、旗山や美濃月光山を抜け、高屏渓の上流にあたる楠梓渓沿いに山へ入っていく。1時間半ほど曲がりくねった道を上り、タロイモ色の甲仙大橋が見えてくれば、そこは甲仙である。
南部横貫道路が1972年に開通して以来、甲仙は高雄と台東を結ぶ中継地となった。車で移動する人は、南部横貫道路に入る前に、ここで休憩して補給するようになり、30年にわたって甲仙を発展させてきた。
だが、2009年8月8日、台風8号が猛烈な豪雨をもたらした(八八水害)。甲仙と外部を結ぶ道路や橋を押し流し、甲仙の経済の命脈である南部横貫道路をも破壊してしまい、今も修復中である。

タロイモ色の甲仙大橋はこの地域の精神のシンボルである。甲仙の人々は世界に出ていき、また観光客に来てもらわなければならない。
八八水害は5年前のことだが、甲仙の人々はその情景を今も鮮明に記憶している。大田社区(コミュニティ)発展協会の張琪・総幹事は「みんな表面的には平気な顔をしていますが、あの時の話になると誰もが涙を流します」と言う。
強さと脆さは紙一重である。心に負った傷が深ければ深いほど、人は強さを装う。大人も子供も同じだ。災害の後、大田社区発展協会では、学童保育にカウンセリングを導入し、子供たちに感情の捌け口をあたえた。「カウンセリング中、私は教室の外に座っていましたが、教室から飛び出してきて号泣する子供が大勢いました」と張琪は言う。普段は平然としている子供たちも、実は心の中に大きな傷を抑え込んでいるのである。涙を拭いた子供が、張琪が心配そうな顔をしているのを見ると、「何でもありません。なんだか急に泣きたくなっちゃって」と笑ってごまかす。
八八水害の後、南部横貫道路が閉鎖されて甲仙の産業は成り立たなくなり、多くの住民が出稼ぎに出てしまい、親が子供と一緒に過ごす時間も少なくなった。そこで、コミュニティによる学童保育の他に、学校でも放課後の活動を増やし、子供たちの世話をしている。
甲仙の市街地から車で10分ほどの距離にある宝隆小学校では、地域で話し合った結果、月曜から木曜まで、学校でデジタル教育や補習などを行うようにして、放課後も子供たちが誰かと一緒にいられるようにしている。
中でも注目したいのはデジタル教育だ。宝隆小学校は義守大学と協力し、ネットを通したテレビ会議の方法で、大学生が子供たちの勉強を見たり、おしゃべりをしたりしている。毎回1時間半、山地に暮らす子供たちにとっては外の世界に触れる絶好の機会となっている。
「子供たちが大学生の生活に触れられれば、人生に、より多くの可能性が開かれるでしょう」と宝隆小学校の蘇耕役・校長は話す。八八水害の後、比較的裕福な家は引っ越してしまい、残った人の多くは農家か労働者で、子供たちも、将来の選択肢は多くはないように感じていた。
山地は交通も不便で、一番近い高校でも車で1時間かかるため、親としては通わせるのも難しく、多くの子供が中卒で働き始める。「この現状を変えなければ甲仙に将来はありません」と話す蘇耕役は、学費が安く、企業実習を実施している技術学校への進学を生徒に進めるほか、保護者に対しても、貧しくても子供に夢をかなえる機会をあたえるよう呼びかけている。

甲仙小学校の綱引チームが住民たちの闘志に火をつけ、綱引の後退する力を前進のエネルギーへと転化した。
台風はすべてを奪い去ったが、新しい契機ももたらした。災害の後、宝隆小学校では生徒数が急減し、今では全校20数人を残すのみ、今年入学したのは1人だけだ。蘇耕役は空いた教室を利用してデジタルセンターとし、地域住民に開放している。インターネットやSNSの使い方、さらにブログの作り方などを教えており、ネットを通して住民の視野を広げようとしている。
読書も世界を広げる手段の一つである。2011年、統一超商(セブン-イレブン)は、甲仙、宝隆、小林の小学校3校および甲仙中学校と協力し、「読書ポイントで朝食と交換」という活動を行なった。本を5冊読んで感想文を学校に提出すれば、コンビニで朝食が1回食べられるというものだ。これを契機に、甲仙では400人の生徒が6000冊の本を読み、読書量は5倍に向上した。
読書を通して世界は広がる。だが本当に甲仙の運命を変えたのは綱引だった。甲仙小学校の林華曲・校長は被災当初を振り返る。「町全体が活気を失い、子供たちも暗い顔をしていて、何にも興味を示しませんでした」。そうした中で、子供たちに外の世界に触れさせるために、コンクールや大会があるたびに、何でもいいから参加させることにした。バスケット、陸上、バドミントン、卓球など、次々と大会に参加し、綱引大会でようやく状況が一変した。
当初は学校も被災していて、甲仙小学校は付近の屋台広場で授業をしていた。場所が限られているため、綱引の練習のために生徒たちは綱を木に結び付け、木を引っ張って練習したところ、おもしろくなってきた。ちょうどその頃、セブン-イレブンの「読書ポイントで朝食と交換」のドキュメンタリーを撮影していた楊力州監督がこれを見かけ、綱引の物語を撮影することにした。それが、2013年に金馬賞で最優秀ドキュメンタリー作品賞に輝いた「抜一条河」なのである。
「当時は、彼が何を撮っているのか知りませんでした」と林華曲校長は笑う。楊力州は甲仙に一年も滞在し、生徒たちが試合に行く先々へ同行した。そしてある日、楊力州は30分のショートムービーを林華曲に見せたのである。この時、校長は楊力州が読書キャンペーンの宣伝フィルムではなく、綱引を中心とした甲仙のドキュメンタリーを撮影していたことを初めて知ったのである。

ドキュメンタリー「抜一条河」を見て啓発され、甲仙での経営を始めたカフェ民宿「好好」では、地元の農産物を積極的に打ち出している。
2011年、甲仙小学校の綱引チームは全国2位に輝いた。甲仙愛郷協会の陳敬忠・理事長や大田社区発展協会の張琪・幹事はすぐに地域住民を集め、一緒に甲仙大橋で小さな英雄たちを出迎えることにした。花火と爆竹と歓声で子供たちを迎え、住民の心にも熱い火がともった。
綱引は後退するスポーツだ。子供たちは絶えず後退し、それが大人たちを前進させることとなった。「後退に大きな力が必要なら、その力を前進のために使えばいいじゃないか」という「抜一条河」の中の言葉こそ住民の声なのである。
「抜一条河」が描くのは競技としての綱引だけではなく、生命の綱引でもある。甲仙商店街の曾俊源・理事長は、子供たちの団結が、愚痴ばかり言って仲間割れしていた大人たちに力をあたえたという。商店は値下げ競争をやめ、原材料や人手が足りない時は支援し合うまでになった。「ライバルはこの街の中ではなく、全台湾の観光地なのですから」と曾俊源は言う。以前ここは観光客が必ず通る町だったが、今は自分たちで特色を出さなければ観光客は来てくれない。その特色は地域全体で作っていなければならないのである。
甲仙はかねてから「タロイモの里」と呼ばれてきた。だが愛郷協会の陳敬忠・理事によると、実は甲仙のタロイモ生産量は多くはなく、時には他の地域から仕入れなければならない。逆に生産量の多いグアバやウメは品質も良く、高雄燕巣や南投信義などからも仕入れに来る。「災害の後、私たちはようやく自分たちの特色を考えるようになりました」と言う。
農業と観光を特色に甲仙の最も重要な産業は農業である。そこで大田地域では住民の意見を聞き、農村再生プランを申請することにした。大学生に村に住んでもらい、観光農場や無農薬作物を打ち出している。
「ここのグアバは無農薬で、よくイノシシに食べられてしまいます」と張琪は言う。現在はネットで直接購入できるようにしており、生産者の名前をブランドにして、農家はこれを誇りに品質を厳しく管理している。
今年、甲仙には新しいイメージが加わった。著名な旅行会社、薫衣草森林の林庭妃が「抜一条河」を見て、甲仙にカフェ民宿「好好」を開くことを決め、このブランドの力で甲仙観光がよみがえることが期待されている。民宿の従業員はすべて現地の農作物に詳しい地元の人を採用している。「私たちは甲仙を売り込まなければなりませんから」と店長の小雅は言う。彼女は八八水害後の再建にソーシャルワーカーとして携わったこともあり、この土地に思い入れがある。店で提供するのはほとんど地元の食材で、従業員はどの食材についても物語を語ることができる。
Uターンしてきた若者や著名ブランドが甲仙に活力をもたらしたが、甲仙で最も活力があるのは、人口の4分の1を占める新住民(東南アジアから嫁いできた女性)であろう。お金のある人は被災地から出て行ってしまい、遠くから嫁いできた新住民は傷ついた大地と向き合わなければならない。「カンボジア、ベトナム、インドネシアなど、彼女たちの故郷の方が甲仙より繁栄しているかも知れません」と話す張琪はツオウ族の出身なので、異なるエスニックの人々と向き合う感覚がよく分かり、さまざまな差別や誤解を受ける新住民からよく相談を受けている。
一緒に困難を経験したので、結束力はさらに強まったと張琪は言う。「手を取り合い、抱き合う他には何もできない」状況ではエスニックや言葉の違いも関係なく皆が運命共同体である。この経験から被災後は新住民も活発になり、差別や誤解も少なくなった。また、インターナショナルデーという催しも頻繁に行ない、食を介した交流などで一体感を高めている。彼女たちの活動の場を広げるために、甲仙愛郷協会の陳敬忠は自宅を改造してレストラン「漾厨房」を開き、東南アジア各地の料理を提供している。
災害は家と無数の命を奪ったが、甲仙に新たな力をもたらした。それは団結の力である。「抜一条河」の中にこんな言葉が出てくる。「子供たちが立ち上がったのに、地域が立ち上がらなくてどうする?」。甲仙は立ち上がっただけでなく、世界にその新たな生命の輝きを見せている。