
1970年、一般に「万国博覧会」とも呼ばれる国際博覧会が初めて欧米の強国ではなく、アジアの、経済成長著しい日本で開催された。「人類の進歩と調和」をテーマとした大阪万博には世界からのべ6422万人が訪れ、現在までのところ、歴史上もっとも多くの人が訪れた万国博覧会となった。
台湾にとっても、この万博には特別な意義があった。当時、我が国はまだ国連を脱退しておらず、「中華民国」の国号で正式に参加したのである。大阪万博の「中華民国館」は、世界的に有名な華人建築家のI.M.ペイ(貝聿銘)が中心になって設計した。ペイの得意とする三角形を用いた幾何学空間は、大阪万博会場でもひときわ人目を引くものとなった。
しかし1970年以降、台湾は次々と国際組織を脱退し、万博に正式参加することはかなわなくなった。それから40年後、中国大陸が上海で万博を開催することとなり、台湾は海峡両岸関係の改善によって再び万博にパビリオンを出せることとなった。今回は官民が手を携え、「台湾館」「台北館」そして「震旦館」の三つのパビリオンが出展している。
このまたとない機会を逃すまいと、本誌記者は3月に上海へ取材に訪れた。そこで上海のさらなる変化に驚かされるとともに、台湾の三つのパビリオンの準備状況も取材した。来月号でも引き続き中国館を中心とする各パビリオンをご紹介する。
3月28日午前6時、台湾の大部分の人がまだ布団の中にいる頃、対岸の上海では、すでに万に上る市民と観光客が「東洋のウォール街」「上海のシャンゼリゼ」と呼ばれる黄浦江の外灘に繰り出していた。
この日は外灘の道路改修工事が竣工する日で、上海人は3年にわたる騒音と土埃からようやく解放されることとなったのである。
長さ3.7キロ、2層6車線の「外灘地下トンネル」が完成し、渋滞していた車道が地下に納められた。これまで地上に11車線あった道路は4車線に縮小され、歩行者用の遊歩道が拡張された。遊歩道を行けば、ビルが林立する対岸の金融街――六家嘴や、黄浦江を行き交う船が見え、また52棟が連なるクラシカルな西洋建築を眺めることもできる。
公共空間を拡張するため、上海市は黄浦公園の囲いを取り除き、以前からあった緑地と一体化させて都市の生態公園を作った。これによって、観光客は自然に親しみながら、かつてのイギリス租界で、数々の歴史の舞台となった外灘の景色を楽しめるようになった。

上海の通りや地下鉄駅の至るところに万博のマスコット「海宝」や万博のポスターなどがあり、いやがうえにも万博への期待が高まる。
「外灘は上海のシンボルです。ここには百年来の中国の政治、経済、文化の変遷が凝縮されています。新外灘はその歴史の流れを引き継ぐだけでなく、黄浦江両岸の機能の転換という重大な作用の発揮を促します」と韓正・上海市長は、新外灘の開幕式で祝辞を述べた。
上海市は7億米ドル(台湾ドルで約222億3500万元)を投じて外灘をリニューアルした。観光と交通の効率化のためもあるが、より重要なのは、もちろん5月1日から始まった上海万博のためである。
中国の公式の予測では、半年にわたる上海万博には世界からのべ7000万から1億人が訪れる見込みで、上海のシンボルの一つである外灘を一新して美しい姿にする必要があった。
2002年末に上海での万博開催が決定して以来、上海市は大小さまざまな公共建設に取り組んできた。例えば、環境にやさしい公共交通手段である地下鉄は、それまでの3路線から11路線まで増やしていく。全長は420キロの予定で、ロンドンの408キロを超えて地下鉄全長は世界一になる。
市の中心部にある虹橋空港西側の虹橋駅は、万博開幕前に世界最大の鉄道客運ターミナルとなる予定だ。空港、高速鉄道、鉄道、地下鉄、バス、タクシーとリニアモーターカーなど、数々の交通機関が乗り入れる巨大ターミナル「虹橋中枢」となり、毎日のべ110万人が利用する。これは、鉄道と高速鉄道と地下鉄が乗り入れる台北駅(1日の利用者のべ40万人)の2.8倍の人数だ。
上海万博の会場は5.28平方キロ、黄浦江の両岸にまたがる。会場予定地に住んでいた1万8000世帯の住民と、272の工場は移転させられ、会場内のインフラ整備が行なわれた。さらに、周囲にある数百棟の住居は政府からの要求で、外壁と屋根を改修して「美化」された。古びて高さも揃わない一般のアパートも「青い屋根に白い壁」または「赤い屋根に白い壁」に統一された。
さらに、街のあちこちを万博の宣伝が彩っている。マスコットの「海宝」の姿は至る所に見られ、ショッピングセンターや地下鉄駅には「調和のとれた都市、みんなの万博」といった標語が貼られており、タクシーに乗れば、タッチパネルのモニターで万博のチケット予約情報や各パビリオンの見どころなどの情報を得ることが出来る。中央政府からの支援を得て、上海市は採算を度外視して全市を挙げて整備と建設に取り組んできた。その目的は、世界の一流都市の列に加わることにある。

空中に浮く月の船のようなサウジアラビア館、建設費は48億台湾ドルに達する。世界最大の3Dシアターのスクリーンの面積はサッカーグラウンド2つ分もあり、アラビアの古代文明や手工芸が紹介される。
大陸の海外駐在メディアの推計によると、中国政府はこの6年の間、上海万博のための建設と都市整備に少なくとも4000億人民元(約2兆台湾ドル)を投じてきたという。この数字を当局は否定しているが、ここ数年の上海の変化を目れば、この数字はそれほど外れていないと思われる。
これだけの予算を投じて「史上、最も高価な万博」を開催するのには、政治的、経済的に深遠な考慮があるからだ。
長年「会議・展示会」を研究してきた淡江大学マスコミ学科准教授の黄振家は次のように説明する。159年の歴史を持ち、5年に一度開催される国際博覧会は、本来は各国が国力を誇示し合う競技場だった。一見「世界最大のテーマパーク」のように見える万博会場だが、実際には政治的シンボルがすべてを凌駕しているのである。
「中国は2008年に北京オリンピックを開催した時点で、世界に『大国の台頭』を宣言しました。2010年の上海万博は、さらに一歩進んで『中国文化のソフトパワー』を世界に示す指標としての意義を持ちます」
中国はオリンピックや万博の開催で、国の富強を世界に誇示しようとしている、と黄振家は分析する。これは、かつて日本が1964年に東京オリンピックを、続く1970年には大阪万博を開催したのと非常によく似ている。北京と上海はそれぞれ中国の政治と経済の中心であり、それは東京と大阪の関係にも似ている。
この二つの巨大国際イベントを通して、中国は対内的には政府の業績を宣揚して国民の愛国心を高め、これによって旧市街地を大々的に再開発する名目を得た。対外的には、世界における存在感を高め、国威を宣揚できるのである。
政治、経済、外交など各分野での目標を達成するために、中国政府は今回の万博において数々の「世界一」の記録を打ち立ててきた。

スペイン館は手編みの籐の板8524枚と鉄骨を組み合わせて建てられた。伝統の手法で染めた籐の板は、さまざまな色合いを見せる。
まず、上海万博は出展規模が過去最大(242の国と国際組織)であり、入場者数も過去最多の7000万から1億人を見込んでいる。また、ここ10年の万博のテーマは「環境」に焦点が当てられてきたが、今回は人々の生活に密着した「都市」がテーマである。
上海万博局の陳先進副局長は、今年3月に台湾で開かれたUFI(国際見本市連盟)のアジアシンポジウムに参加した際に次のように述べた。上海万博のテーマを「より良い都市、より良い生活」としたのは、中国独特の都市の発展経験を世界と分かち合うためだ。――1980年代の改革開放以来、地方の農民や労働者が少しずつ都市部へと移住し、彼らの努力によって沿海および内陸各都市は飛躍的に発展し、貧しかった農村の生活も豊かになったのである。
陳先進は、これら3億の農民と労働者が「平和的」に都市人口に変ったことこそ、世界における中国の最大の貢献だと考えている。
厳格な戸籍制度の下、現在、中国に157ある人口100万人以上の都市では、アメリカや途上国に見られるようなスラム街やゴミの山や犯罪が見られないのは確かだ。しかし、資本主義を最優先する発展の中で、都市部における貧富の格差は日増しに拡大して不安定要素も増えており、中国当局は慎重に対応している。
中国では今後30年の間に、さらに3億人が農村から都市へ移り住むと見られている。「私たちも、世界の都市に学ばなければなりません」と陳先進は語った。
こうした考慮から、これまでの万博が国家館や国際組織館、企業館だけだったのと違い、今回は「ベストシティ実践区」を設けて世界の主要都市からの出展を募り、特色ある都市計画を紹介することとなった。その中で、台北市は世界で唯一、二つのテーマ――ワイヤレス・ブロードバンドとリサイクルでの出展を認められた(20ページの記事を参照)。
4月初旬に来台し、「台北-上海、二都市フォーラム」に参加した上海の韓正市長は「都市の発展進度は文明の縮図である」と述べた。上海市長は、万博を通して世界の多くの都市と交流し、産業のレベルアップや失業、交通渋滞や住宅不足、それに都市発展と環境保護の両立といった課題について意見や経験を交換したいと考えている。

ポーランド館の外観は、民間の伝統工芸である切り紙細工を表現している。開催中はポーランドの生んだ偉大な作曲家の生誕200年を記念して、毎日ショパンのピアノ演奏会を開く。
上海万博は、中国にとっては2008年の北京オリンピックというデビューに続く第二のビッグイベントである。一方、海峡を隔てた台湾にとっては世界にその存在を知らしめる千載一遇のチャンスであり、また台湾海峡両岸交渉における相互信頼のモデルでもある。また今後台湾が世界の舞台に再び立てるかどうかの試金石ともなる。
国際博覧会の審査などを行なうBIE(博覧会国際事務局)の規定では、万博に「国家館」として参加できるのはBIE条約加盟国に限られている。しかし、我が国は1970年に大阪万博に出展した後に国連をはじめとする国際組織から脱退した。以来、台湾は外交的に難しい立場に置かれ、その後の万博開催国も中国の阻害があって、我が国に参加を要請することはなかったのである。
台湾との交流が頻繁な日本でさえ、2005年の「愛・地球博覧」開催の際には「イラ・フォルモサ」という名でのレストラン出展しか認めなかった。美食や特産物を通して台湾を紹介するだけで、他の国々のように正式なパビリオンは出せなかったのである。
だが、今回の上海万博では状況が大きく変化した。40年という時を経て、台湾は再び正式に出展を招請され、しかも「台湾館」「台北館」それに「震旦館」の3つのパビリオンを出すことができたのである。なぜ、このようなことが可能になったのだろうか。
上海万博のテーマは「都市」である。台北市は大阪市やソウル市と同様、アジアの重要な都市であり、「ベストシティ実践区」への出展申請がBIEに認められた。一方の「震旦館」は「台湾資本企業」として上海万博局に申請し、黄浦江西岸の18の企業館の一つとして出展できることとなった。都市と企業という点で、台北館と震旦館には特に問題はない。
だが、国家主権の象徴である「台湾館」はそうはいかない。主権国家としての出展資格は認められず、都市館でも企業館でもない台湾館をどう位置付ければ政治的問題を克服できるのか、両岸交渉における双方の知恵が試された。
今回、台湾館の出展を可能にした交渉の中心的人物は対外貿易発展協会の王志剛董事長だ。その話によると、中国は2009年5月17日に我が国に万博出展を正式招請してきた。これは重大事項であるため、馬英九総統が国家安全会議を招集して検討した結果、「台湾は必ず参加すること」「対外貿易協会が民間の身分で参加すること」「国格は決して矮小化されてはならないこと」、また「民間の身分であるため政府は出資せず、建設と運営の費用はすべて対外貿易協会が調達すること」という四つの原則が決まった。

スイス館の赤い外壁は大豆繊維と樺の樹脂でできており、発電機能も持つ。緑の屋上はスイスの国土を表現しており、入館者はリフトで上がることができる。
出展が決定すると、次の交渉の重点はパビリオンの名称とエリアの選択である。中国共産党が統治する土地において、台湾が「中華民国」の名義で参加することは不可能であるため、双方はこれを「台北世界貿易センターが民間の立場で運営する台湾館」と位置づけることで合意した。そして、これを「国家館」とするかどうかは、両岸がそれぞれ表現する曖昧な空間として残された。
名称が決まると、次の課題は出展エリアである。中国当局は当初は台湾館を中国館エリア内の、香港・マカオ「特区館」と同列に置いて統一のイメージを出そうとしたが、これは我が方が受け入れられるものではない。そこで再び対外貿易協会が交渉に当たり、最終的には香港館・マカオ館および中国各省のエリアを離れることができた。
最終的に台湾館が置かれたのは、アジア各国のパビリオンが集まる浦東会場の「Aゾーン」で、万博のメインストリートである「万博軸」に隣接している。中国館とは高架歩道を隔てて近くも遠くもない距離に相対しており、地理的にも政治的にも現状にマッチした位置関係となっている。
この交渉過程について王志剛は次のように語っている。台湾海峡両岸の間では早くから「上海万博に台湾が欠席してはならない」というコンセンサスが得られており、交渉も自ずと積極的かつ正面的な態度で進められた。さらに両岸の大和解というムードの中で、現状を基礎とするという合意が得られ、互いが相手の困難に配慮して妥協するという形が採られた。民間名義で出展するのは、我が国の国民には十分満足できる形ではないかもしれないが、これは仕方のない政治的現実である。
「別の見方をすれば、長年参加できなかった万博に台湾が出展することの意義は大きいと考えられます。今回確立した良好な交渉が前例となれば、今後の万博や国際イベントにおいても、これに照らして参加できる可能性があり、そうなれば台湾には非常に有利になります」と王志剛は言う。
2009年7月17日、対外貿易協会は上海万博局と出展確認の署名を交わし、すべての参加国の中で「最後」の参加決定となった。決定と同時に国内の著名建築家を招請してコンペを行なった。コンペの結果、台北101や北京の「盤古大観」などで中国でも高い知名度を誇る建築家の李祖原が設計を受注した。偶然のことだが、李祖原は40年前の大阪万博の「中華民国館」の設計チームのメンバーでもあった。

中国の万博局が建設費を支援して建てられたアフリカ連合館には、アフリカ42カ国とアフリカ連合が共同出展している。テーマは「希望と機会に満ちた大樹」だ。
今回の台湾館の構想は、台湾人が愛する、台北県平渓の伝統行事「天灯上げ」(紙のランタンの下に火をつけて夜空に放つ祭り)から来ている。李祖原は「山水心灯」をテーマとし、台湾館をガラスの天灯の形にした。天灯の形のガラススクリーンの中にLEDの球体が入っており、光と音を利用したさまざまなパフォーマンスが楽しめる。小さいが、光を放って存在感を示す台湾館は、それ自体が一つのアートであり、見学者に新鮮な体験をもたらす(20ページの記事を参照)。
一方の台北館は、世界に知られる映画監督の侯孝賢が手がけた3D映像『台北・生活・微笑』を360度のシアターで上映する。見学者に、リアルな映像を通して台北の生活と友好的な雰囲気を感じてもらうのが狙いだ。もう一つの映像『未来台北』は、台北盆地の模型の上に設けたピラミッド型のスクリーンに、特殊な方法を用いてバーチャルな影像を映し出し、ワイヤレス・ブロードバンドとリサイクルが定着した未来の台北の生活を表現する(28ページの記事を参照)。
我が国の企業として万博初出展となった震旦(オーロラ)館は、最先端のホログラフィーを利用し、震旦博物館が長年をかけてコレクションしてきた紅山文化(中国北部の新石器時代の文化。今からおよそ6000余年前)から明・清までの各時代の代表的玉器40余点を展示しており、歴史文化に興味のある人々にはじっくりと鑑賞する価値がある(33ページの記事を参照)。
上海万博に出展する台湾の三つのパビリオンのテーマや位置づけはそれぞれ異なるが、いずれもこの一大イベントを通して台湾を国際舞台に乗せたいという期待が込められている。台湾海峡両岸にとって上海万博は、将来の協力空間を模索する絶好の機会でもある。半年間続く万博の間、Made in Taiwanの三つのパビリオンが、黄浦江の両岸で光り輝き、世界中の人々に台湾の素晴らしいソフトパワーを見せることだろう。

「建設の中でより良い未来を迎える」というのが万博と将来に対する上海人の展望だ。新外灘を散歩するこの父娘の笑顔がすべてを物語っているかのようだ。

メキシコでは、凧は将来のより良い生活への期待を象徴する。色とりどりの凧と緑の芝生が美しいパビリオンは、メキシコが提唱する「エコ・環境・平和」の都市生活を伝えている。

陸家嘴の地下鉄駅に寝泊まりする地方出身者が売るのは、上海万博のマスコット「海宝」のコピー商品で、1日の収入はわずか数十人民元。彼らにとっては、このニセの海宝こそ万博の最大の価値である。

万博のメインストリート「世博軸」のシンボル「陽光谷」は鉄骨とガラスでできており、陽光と空気を地下へ取り込み、雨水を収集する機能もある。これによって地下空間でも快適に過ごせる。

上海の通りや地下鉄駅の至るところに万博のマスコット「海宝」や万博のポスターなどがあり、いやがうえにも万博への期待が高まる。

カラフルなエストニア館のテーマは節約都市。館内には大きな豚の貯金箱が33個あり、より良い都市生活への願いを入れることができる。

万博のパビリオンは国家の顔でもあるため、どの国も設計には殊のほか力を入れる。オーストラリア館の外観は荒野に続く起伏に富んだ岩を表し、赤褐色は内陸の赤土を象徴している。

上海万博の三つの台湾パビリオン

中国の目覚ましい経済発展は世界が認めるところだが、都市人口の激増と貧富の差の拡大、交通渋滞などの問題は深刻化している。写真は上海外灘のリニューアルオープン時の人出。

2008年の北京オリンピックに続き、今度は上海で過去最大規模の万国博覧会が開催されている。立て続けに世界的なビッグイベントを催すことで、中国は世界に「大国の台頭」を宣言した。写真は上海で最も有名な「外灘」からの夜景。