ひとつの出会い
外国人のためにオーダーメイドのシャツを作っていた時、刺繍でイニシャルを入れる必要があったが、当時は刺繍のできる人が少なかった。そこで彼は台北市職業訓練局にコンピュータミシンを使った刺繍を学びに行った。アルファベットだけでなく、花鳥や山水もあり、刺繍を施した後は皺になるので、表装する必要があった。その表装が楽しくてたまらなくなったのである。そこで父の書を表装していき、上手になるとこれで開業したくなった。だが、実際に顧客に接触すると、表装に対する要求はさまざまで、そんなに簡単ではないことがわかり、弟子入りして学ぶことにした。
ある時「冊頁」という表装技法を学ぼうと思い、2万元の謝礼を包んで師匠に教えを請うた。そのまえに書物で冊頁の工程を学んでいたので、最初の授業の時に4つの質問をしたところ、師は一つも答えてくれず、不真面目なやつだと言うだけだった。呉哲叡は、その場で2万元は無駄になっても、この人に教えを請うのはやめようと思った。お金は無駄にできても、時間を無駄にすることはできないからだ。台湾の多くの職人は人に教えようとしない。教え子が独立して競争相手になることが心配だからなのである。
だが、道は自ずと開けるものだ。職人が教えてくれないのならと、彼は表装の材料を買ってきて、当時もっとも大きかった和泰裱褙材料公司の営業マンに応募した。ところが、ちょうどその頃、同社の社長は末期がんを患い、経理専門の義理の娘に会社の廃業手続を頼んでいた。
そこで呉哲叡が「せっかく働きたい会社を見つけたのに、廃業してしまったら、台湾には表装材料問屋は何社も残らないじゃないですか」と言うと、その義理の娘は「社長が亡くなったので、営業する者がいないんです」と言う。そこで呉哲叡は勇気を出してこの会社の営業に責任を持つと話し、彼女を通して会社を買い取る話をつけたのである。
その後、彼は配達をしながら表装・表具店の職人の技法を観察していった。「自分で勉強していたので、職人の腕の良し悪しは分かりました。表装はやり始めたら止めることができないので、最後まで観察することができました」と言う。時には紙を引っ張ったり、机を拭いたりして手伝った。表装店と材料問屋という関係で、各店の経営者とも親しくなり、配達を忘れて長居することもあった。
こうして一日中表装店で職人の作業を見た後、家に帰って自分で試してみた。疑問があれば、また口実を作って表装店を訪ねる。こうして観察と練習を重ねて、30人以上の職人の技を盗んでいった。「これらの師匠とも親しくなり、お前はずっと横で学んでいたのか、と言われました」と言う。こうして不思議な縁から表装の世界に入り、当初の経営者の義理の娘を妻とすることとなった。
呉哲叡が自ら複製した古代の「龍麟装」。広げていくと各頁が鱗状に重なっている。