
わが国の南アフリカへの移住ブームは、1980年代中期から90年代に最盛期を迎えたが、その頃の投資優遇措置を目当にしたビジネス移民は、政治状況の急変により大きな影響を受けている。本業を守って安定した成長を続けている企業は今では数少なくなったが、荘英漢さんはその代表であろう。事業に成功して南アフリカ最大の宝石工場となったばかりではない、台湾企業の連合と中国語教育などの公益活動に熱意を注ぎ、若い世代の華僑のリーダーなのである。
荘英漢さんは桃園県の客家の集落に育った。農家の出身である。遠い海の果ての南アフリカに投資しようとは、夢にも思わなかった。
1970年代後期、台湾経済は急速な成長を開始し、政治を学ぶものも文学部卒業もみなビジネスに手を染め、その中でも貿易はとくに人気だった。現在はすでに大きく育った大企業でも、その頃は元手たった5万台湾ドルで始めた貿易業の起業青年たちの会社だったのである。
1978年、台北商業専科学校を卒業した荘英漢さんも、この貿易ブームに乗っていった。英語ができたし、誠実な態度と若者の頑張りで、受注し、仕入れ、工場を回り、製品を検査し、多くの業種の様々な顧客や業者に接して経営者としての基礎をたたき上げていった。
そのころの荘さんの貿易経験は、機械、金物、雑貨などが主で、宝石は個人的趣味であった。台湾は宝石加工業が盛んだったので、ときに小口の注文を受けて家内工業の工場に発注することもあり、こうして加工、カット、研磨などの知識を蓄え、次第に目が肥えていくと共に業者とも親しくなった。貿易から製造業に乗りだすとき、宝石鑑定を学んだ長兄と協力して宝石加工業を選び、そこからまた南アフリカに進出し、あっという間に15年が経っていた。
「人生の選択はどれも互いに絡み合っていて、そのときが来ると自然に決るものです」と、温厚な荘さんはそのころを振り返る。コンテナ20個分のプラントと共に南アフリカに移住すると言う決定を下したのも、今思うと不思議である。「あの頃は若かったので余り考えませんでしたが、今なら考えるでしょうね」と笑う。
自分の起業も、考えてみるとその時の勢いだった。貿易商同士の競争が激しくなり、大きなメーカーは自分で貿易部門を持つようになり、貿易商も衛星工場を設立するようになっていて、生産事業も持たなければ競争にならない時代になっていたのである。長兄と共に宝石業経営に乗りだし、ブラジル、南アフリカ、インドなどから宝石原石を輸入して製品加工し、主にアメリカに輸出していた。ビジネスはうまくいったが、産地の原料の手配は輸入業者に頼っており、現地の輸出業者と産地の鉱山と流通は複雑で、それぞれにコストがかかった。そこで直接現地で仕入れたいと考えるようになった。そのころ日本からの虎眼石の印材注文が急増して値段もよかったが、虎眼石は南アフリカの特産で、輸出に制限があった。そこで兄弟は、何とか十分な虎眼石の原石を手に入れたいと考えたのである。
ある時たまたま南アフリカの鉱物局長が台湾を訪れ、荘英漢さんの台北の展示ルームを見学した。その時、南アフリカに工場を設立しないかと話があり、これが産地で直接仕入れたいという兄弟の希望と一致する。そこで荘さんは積極的に準備を開始し、一年足らずの間にカット、研磨、デザインなど10余りの衛星工場に任せていた作業のための機械を全部購入し、1985年にプラント輸出の方式で、20個のコンテナに積みこんで南アフリカに送ったのである。無論、輸出は続けていくことにした。
誰もが知っているように、南アフリカは宝石の天国である。デビアス社が世界のダイヤモンド市場を独占しているが、それ以外にも宝石鉱山は数多くある。貴金属としては黄金が一番よく知られているし、宝石ではダイヤモンドばかりではなく、アジアでとくに好まれる虎眼石やアメジスト、それにマラカイト、メノウ、琥珀など、多くの種類の石を産出する。しかし、毎年のファッションの流行が変化するように、宝石もこれに合わせて流行がある。この業界でも流行の傾向を把握して、今年はどの石のどんなアクセサリーが流行るかを見極めないと、売れ残ってしまう。
この業界に入って20年近くになるが、荘さんは一刻も気を抜けない。全て自分で鉱山に行き、原石を選ぶ。南アフリカの宝石鉱山の多くは北部ケープ州にあり、片道1400キロの距離である。時にはヨハネスブルグから500キロのダイヤモンド産地キンバリーに行ってから、さらに北の鉱区に鉱石を見に行く。そのために年に10万キロ以上運転するのだそうである。「この業界は宝石を扱うので華やかに見えますが、実際の苦労は本人でなければ想像もつかないでしょう」と荘英漢さんは言う。
原石の価格はコストの5分の1を占めるが、いい石が手に入れば成功は半分約束されたようなものである。しかし、これには経験と才能が必要であるし、プロかどうかは鉱山に行けばすぐに分ってしまう。ベテランでもいい石が手に入るかどうか、時には運次第である。中国人なら和氏の璧の話を知っているだろう。卞和は和氏の璧のために両足を切られてしまった。ただの石の中に貴重な宝石が埋れているとは、専門家でさえ見て取れないことがあるからである。鉱区に行って原石を買うにはそれぞれの腕次第、時には安い値段で上等の原石が手に入り、大もうけをすることもあると言う。
原石を手に入れたら、流行を見極め、よい職人を使って加工し、適切な値段を決め、しっかりした顧客に売りさばかなければならない。宝石業は人が頼りの手工業だと荘さんは言う。この業界で生きていくのは容易ではないが、それが不慣れな外国だとなおのことである。南アフリカ人と原石を競り合うには、よほどの目がなければならない。
最初の2年は、大変な苦労続きだったと荘さんは話す。機械のメンテナンスにも部品はない、現地の職人の技術が悪すぎて原石の歩留りが恐ろしく低いなどの問題に直面した。ここまで来たら引き返せないと覚悟を決めた荘さんは、製品の種類を増やしながら労働者を訓練し、カットと研磨は経験のある大陸の職人を招いて、少しずつカットから宝飾加工、マーケティングまでの宝石王国を確立していった。顧客も輸出から国内向けまで、製品はアクセサリー、装飾品、ボタン、印材、宝石画、宝石樹、原石を加工した置物まで様々である。
製品の多様化により、原石を余さず利用することになり、廃棄物が減少してコスト・ダウンにつながった。現在、南アフリカの宝飾品の8割が、荘英漢さんの永昌宝石工場で加工されているし、宝石城珠宝公司が受注、卸売り、小売りを扱っていて、南アフリカ最大の宝石加工販売センターである。南アフリカを訪れる台湾の観光客は、みなこの宝石城珠宝公司に見学にやってくる。客好きの荘さんは自ら台湾からの客を出迎え、宝石について説明してくれる。
これまでの来し方を振り返ると、荘英漢さんは起業の苦労を話さずにはいられず、中小企業が周囲につられて外国に投資し移住することを勧めはしない。「当時、ここには宝石業者が18社来ましたが、残っているのは3社だけです。経営の大変さが分るでしょう」と言う。とくにここ数年では、南アフリカの政治的経済的環境は激変し、経済全般が衰退し失業率は高止りしたままで、治安は悪化している。さらに中華民国とは国交が途絶えてしまい、どの条件をとっても当時より悪くなっているではないか。
それでも家庭やお子さんの話になるとまた別で、急に元気がよくなる。「南アフリカの居住環境はとても快適だし、子供の教育も相当のレベルに達しています。台湾や、中国大陸、東南アジアとは比べものになりません」と言い切る。
俗に二人が心を合わせれば、金も断てると言うが、荘英漢さんの奥さんは華僑の間でも賢妻で知られ、事業でも家庭でもよきパートナーである。荘さんが買付けに出かけているときは、奥さんが会社を見ながら、家事はメードを仕込んでこなしていく。しかもメードに料理を教え込み、中華料理はお手の物、三色寒天プリンでさえも作ってしまう。
娘と息子の話になると、荘英漢さんは思わず相好を崩す。「娘は勉強熱心で、自分の意見も持っています。英語や南アフリカ語ができるし、フランス語も学んでいます。一番嬉しいのは中国語がしっかりしていることです」と話す。息子はまだ小さく、南アフリカ生まれなので、これらの言葉に加えてアフリカ先住民のズールー語まで分る。「中国語は絶対できなければなりません。どの家庭でも中華文化を受け継いでいかなければなりません」と荘さんは続ける。
南部アフリカ友誼協会の副会長である荘英漢さんは、しばしばイベント企画に頭を絞り、生活を楽しむと共に、中国人がこういった活動を通してこの地に根を下せるようにと願っている。また中華民国僑務委員会の組織する華人商工講習会員友誼総会のアフリカ地区総会長でもある。僑務委員会はこの10年の間、毎年不定期に海外企業向けの講習を行ってきた。期間は10日間で、国際貿易の傾向、プラント輸出など、海外投資に関する問題について専門家を招いて集中講習を行うもので、台湾企業には大きなプラスである。それが2年前に僑務委員会の後押しがあって、講習参加者の経常的組織が設立されたのである。今では五大陸全てに分会ができているそうで、会員は相互に連絡し協力しあい、共に異国で頑張るために役立っている。
美しい宝石の城、荘英漢さんが話してくれた起業の過程を聞くと、優秀な台湾人はあたかも宝石の原石のようなものだなと思いたくなる。異国の中で一人、カットされ、磨かれ、ついに貴重な宝石となるのである。こう思って荘英漢さんをよく見ると、光を放っているかのようであった。