これまでの一世紀を通じて、台湾糖業公司(台湾シュガー)は台湾の経済発展に貢献してきた。政府の政令に従う国営企業として、農業を基盤とした台湾糖業は、経済的な利益を追求するばかりではなく、農業によって工業を育てるという重責をも担い、国運が難局にあった1950年代、細いサトウキビを頼りに台湾経済を支えたのである。
それが経済環境が大きく変化する中で、かつての繁栄は過ぎ、製糖産業は寂れてしまった。新しい世紀のチャレンジの中、台湾糖業はいかにして変化に立ち向い、新しい路を探り出していくのであろうか。
晩秋の候、嘉義一帯の平野に暖かい日差しが降り注ぎ、後壁郷烏樹林製糖工場の周囲の水田には「五分車」と呼ばれる軽便鉄道が、毎時10キロの速度でゆっくりと762ミリの軌道を走っていく。運転手の詹永瑞さんの日焼けした顔には、細かいしわが刻まれている。ダイムラー社製のディーゼル機関車から見上げると、線路が伸びていく先にはこうべをたれた稲穂と、2メートル近いサトウキビが風を受けて立っている。タバコに火をつけた詹んの目の前には、見慣れたいつもの風景が広がっているのである。
サトウキビ運搬車を改造した15両の客車に満載の観光客は、週休二日の旅行ブームに乗って、平凡な景色に感動し、列車が県道172号線を渡ると、踏み切りに止まる車に手を振る。蘇った台湾糖業の軽便鉄道は、時代から外れたようなスピードで、のんびりと畦道の中を行く。踏切で待つ人は辛抱強い表情を見せ、何世代も台湾を養ってきた嘉義の穀倉では、ゆったりとしたペースがいいのだと言わんばかりである。
詹んや台湾糖業の多くの社員にとっては、サトウキビ畑を行く鉄道に捨てがたい思い出がある。戦後の農業で工業を支えるという時代、製糖産業が巨額の外貨を稼いでいた時代を生きてきた人は、台湾糖業の変化に信じがたい思いを抱いてきた。サトウキビ畑に一生を過ごしてきたク竄ウんも「製糖工場が一つ、また一つと閉鎖されるとは」と嘆く。

蘭の育種は絶え間ない観察と実験を必要とする非常に専門的な分野だが、新品種を売り出すかどうかは、市場の好みを考えて判断する必要がある。写真の蘭は美しいが、許聡耀氏の認可を受けていないため、将来この花が市場に出るかどうかは未定だ。
「祖国」に奉仕
日本統治時代、民間の東洋精糖が1911年に烏樹林製糖所を設立し、1926年には明治社に合併され、新営総工場の管理に入った。その最盛期の生産高は、烏樹林工場で毎日1600トンを圧搾しており、その生産量もさることながら、品質のよいことで知られ、皇室御用達にも指定されていた。このために当時の「祖国」日本から表彰されたのである。
戦後、政府は日本時代の4大株式会社の資産を接収し、台湾糖業を設立した。烏樹林工場は再び数十年の繁栄の日々をすごし、戦後台湾全土で売れた黒松サイダーも、烏樹林工場の白糖を指定していた。
今から見ると、繁栄から衰退までの足取はいかにも速かった。1983年、台湾糖業は損益を評価して烏樹林製糖工場の製糖事業廃止を決定し、くもの巣のように張り巡らされたサトウキビ運搬用の線路も、次第に土に埋もれていった。WTOに加入した今日、輸入の砂糖に脅かされて製糖業はさらに衰え、かつて糖業鉄道で結ばれていた自営農場と契約栽培のサトウキビ畑は、さらに荒れ果てていくと心配される。
現実に、製糖業の最盛期には40余りあった製糖工場は、台南県烏樹林のみならず次第に廃止され、2005年末にはわが国の国内生産量は12万トンにまで減少すると見られる。これは台湾糖業の自営農場の7万トン、契約栽培の5万トンが内訳である。そうなると、全台湾のサトウキビ作付面積は1万6千ヘクタールにまで減少し、製糖工場は虎尾、南靖、善化と南州の4カ所にまで削減される。

製糖用水供給の任務を終えた尖山
、美しい風光に恵まれたここは台湾糖業の観光事業に活かされることとなった。
資産売却の日々
経済部(経済省)国営事業委員会の資料によると、2002年度に図体の大きい台湾糖業は19.7億台湾ドルの欠損で、本業の欠損を資産売却益でしのぎ、やっと税引前利益21.9億台湾ドルを達成していた。
長期にわたり国営企業として経営されてきた台湾糖業の衰退は、早くから兆候が見えていた。1981年から1990年の間、国内の砂糖価格はキロ27台湾ドルと安定した価格を維持していたが、その後、国際的な砂糖価格変動の影響を受けて値下りし、1990年には10.5台湾ドルの底値となった。その後、台湾糖業は国際的砂糖価格に歩調を合せる政策を採り、砂糖価格はキロ平均14台湾ドル前後を維持していた。
しかし、数多いサトウキビ農家の生活を保護するために、台湾糖業のサトウキビ買付価格は引き下げられることなく、ずっとキロ当り24台湾ドルを維持していた。言い換えれば、台湾糖業はこの何年か赤字商売をせざるを得なかったのである。
長期的欠損、さらに台湾一の大地主ということで、台湾糖業は祖先伝来の資産を持ちながら守りきれない没落貴族のように、その財産を狙われつつあった。幸いなことに、この局面におよび、台湾糖業は甘い昔の夢から覚め、奮起し始めた。
1995年、台湾糖業は万難を排して民営化プランに着手した。まず段階的に契約サトウキビ農家に離農を勧め、また2003年からは台湾糖業を8つに分割し、それぞれの事業部を設立させていった。

烏樹林センターが99年に交配に成功したタイスコ・ダーリンは、日本市場でもよく売れており、英国ロイヤル園芸協会にも登録された。
過去の歴史を抱えて
政府の既定政策として、台湾糖業の民営化は避けられない。しかし、中華工程、中華電信、台汽客運、それに台湾鉄道などの会社の民営化が引き起こした多くの問題を目の当りにしてみると、広大な土地を有し複雑な構造の台湾糖業の民営化は、より難しいものである。台湾糖業労働組合の翁万福理事は、台湾糖業が果してきた歴史的役割を理解しなければ、今日の台湾糖業の問題を客観的に見られないと話す。
1952年から1964年の間、台湾の砂糖は輸出品目のトップであった。工業の発展が始まったばかりの段階で、砂糖の輸出は外貨収入の74%を占めたこともあった。こうした勃興と衰退を目にし、台湾糖業のかつての繁栄に詹んや翁理事など古手の社員は感慨を押さえ切れない。
金のなる木がいつの間にかお荷物になるまでには、国内の経済構造の変化ばかりではなく、台湾糖業自身も外からはうかがい知れない様々な重荷を抱えてきた。
「日本時代には植民地の祖国に奉仕し、1950から60年代は外貨獲得を任務とし、国営企業である台湾糖業は一貫して政治的任務を負ってきました」と、長期にわたり台湾糖業を見てきた文化関係者の曾吉賢さんは話す。
曾さんによると、第二次大戦後の一時期はアメリカが台湾の産業発展を主導してきた。その1950年代、キューバのカストロ政権封鎖のためにアメリカは国際的砂糖価格を安値誘導し、製糖国であるキューバ経済に打撃を与えようとした。その当時、アメリカ主導の国際糖業協定によって、国際市場の需要を満たすためにわが国の蔗糖生産量が年産70万トンまで引き上げられた。当時の米の価格は蔗糖より高かったのだが、わが国は1965年にサトウキビ農家服務社を設立し、肥料の貸付、現金の貸付、担保借入金などの手段を通じ、サトウキビ農家の生産拡大を奨励した。
「当初からすでに台湾の製糖コストは高かったのですが、さらに増産を続け、作付面積を拡大しました」と曾さんは言う。政府は見えない市場の手をさえぎり、市場の自発的な需要と供給の調整機能は失われ、その後の台湾糖業に発生する多くの問題の遠因となった。「台湾糖業の存在は経済効果にかなっていませんでした」と政治大学経済学科の黄邵恒助教授は断言する。経済がテークオフして物価が高騰する以前であっても、台湾のサトウキビ栽培の土地コストと人件費はキューバやジャワに比べて高かった。「台湾が閉鎖的経済なら砂糖価格も調整可能かもしれませんが、台湾は長期的に貿易に頼っており、今日では開放と競争の時代です。砂糖は輸入するのが合理的というもので、とっくに解禁すべきだったのです」と、黄助教授は続ける。

(左・右)広大な土地資源を有する台湾糖業は、サービス業や流通にも進出している。写真は台南県仁徳郷の郊外に隣り合わせにある台湾糖業ガソリンスタンドとショッピングセンター「カーニバル」だ。
蘭の栽培で名を馳せる
本業がだめなら、台湾糖業の未来は副業にかかっている。1983年の工場閉鎖後、烏樹林では蘭がサトウキビに取って代わった。今年6月、台湾糖業はここに高付加価値農業事業部を設立し、観葉植物などの栽培と共に胡蝶蘭を核心に据えた。
農業事業部の設立後、肩書きが工場長から技師に変わった呉亦儒さんは笑いながら「他の人が金をかけて蘭を栽培するのに、私たちはそれで金を儲けます」と言う。中興大学園芸研究所を卒業した呉さんだが、台湾糖業では豊富な専門知識を持ちながら、契約社員である。蘭の株を植え替え、水をやり、包装しと何でもやるが、園芸が好きであり、また達成感があるというのが、この温室で8年も過ごしている理由の一つである。
「他の人は、普通と違うねと笑いますよ」という呉さん、お役所とは違って、勤務時間に新聞を読む人もいなければ、アルバイトする人もいない。優れた技術で、台湾糖業の蘭栽培事業は世界的に名を知られるようになった。「重要なのは台湾糖業に対する外の見方が変わったということで、台湾糖業マークが台湾の蘭栽培の象徴になっているのです」と呉さんは誇らしげである。

(左・右)尖山
「酔月小楼」の景観は日月潭の涵碧楼にも匹敵する。壁一面の窓を開ければ美しい山水がそのまま入ってくる。
根を下ろす農業思考
蘭栽培事業が成功し、注意を引いたかもしれないが、それでも台湾糖業は国営事業、競争力に欠けるという面はまだ根強くある。いくつかの副業が成功したものの、その他の投資事業は壁に突き当っているからである。中でも欠損続きのコンビニ事業とガソリンスタンド事業は、外の批判を浴びている。
「台湾糖業のガソリンスタンドでは従業員がお客に来てほしいと思っていません」と、労働組合の翁理事は話す。台湾糖業および国営企業の人事問題を一言で言えば、管理の基本であるインセンティブの原則に違反しているということである。古い時代の経営モデルに固執し、お客が来ても来なくても給料は同じ、コンビニが毎年赤字でも、経営陣は解決策を打ち出せず、相変わらず損失を垂れ流している。
「さらに困ったことに、このプロジェクトを誰が提出し実施するのか、欠損の責任を誰が取るのか分からないのです」と翁理事は言う。
さらに、ここ数年大規模なリストラを繰り返したものの、台湾糖業の社員数は今も5500人に達している。あちこちに手を伸ばした台湾糖業は、広大な土地に加えて扱う製品の種類も480に上っている。それぞれの部門が分担する人件費、工場経費など複雑多岐に渡り、財務諸表はまるで迷宮図である。2002年に社長に就任し、2003年12月に辞職した呉乃仁氏も、見てもよく分からなかったと言う。
財務諸表が複雑で分かりにくいというなら、その解決方法は巨大な事業を分割し、それぞれの部門を独立したプロフィットセンターとすることである。こういった考えの下に、台湾糖業では畜産繁殖、バイオ、商品マーケティング、量販部、高付加価値農業および製油などの事業部を設立し、さらに企画中のレジャーと製糖事業部を加え、合理的に組織を改変し、将来の多角経営に足を踏み入れようとしている。

(左・右)尖山
「酔月小楼」の景観は日月潭の涵碧楼にも匹敵する。壁一面の窓を開ければ美しい山水がそのまま入ってくる。
市場に注目される副業
巨大な事業の分割は、大きな象が舞うようなもので、あちこちに衝突を引き起こす。しかし、この改革によって台湾糖業に未来が見えてきたのである。
一昨年にバイオ製品を発売して以来、台湾糖業のコラーゲンや胎盤エキスなど美容製品の売上は驚くべき成長を見せ、2001年の81万台湾ドルから2002年には4890万台湾ドルに増加した。2003年の最初の8ヶ月の売上はすでに4500万台湾ドルに達しており、年間の売上は8300万台湾ドルが見込まれ、3年前の100倍である。
台湾糖業のバイオ製品は初期のアルコールから数えると、その歴史は長い。コラーゲンの成功は技術の高さもあるが、市場の同種の製品に比べて価格の優位もあるだろう。またコラーゲンと同時期に発売した健康食品「冬虫夏草」は、この2年間で4億台湾ドルを売り上げた。
台湾糖業バイオ事業部の責任者楊博文さんは、1995年から台湾糖業研究所の研究チームを率いて夏草冬虫の菌類の開発を続けている。その話によると、砂糖の価格はキロ14.5台湾ドルなのに対し、夏草冬虫のカプセルは0.4グラムで20台湾ドルである。台湾糖業の将来がどこにあるか、明らかだろうと言う。

吹き抜けの広々としたショッピングセンターに専門家チームの協力が加わり、台湾糖業の「カーニバル」は運営開始直後にテナントが9割埋まった。
技術移転で不足を補う
市場で知名度を獲得しつつあるバイオ製品に加えて、同社はサービス業にも手を伸ばし、豊富な土地資源を活用して観光と流通産業の開発を始めている。2003年1月にオープンした台南県尖山埤の江南リゾート、9月に試験運営を開始した仁徳郷にあるショッピングセンター「台湾糖業カーニバル」と共に、反応は上々である。
オープン以来、江南リゾートの宿泊率は6割に達している。まだ観光業を勉強中という蕭啓良副社長は、就任してこの2年、連休を取ったことがない。先ごろは風邪で体力が続かなくなり、病院で点滴を打ってからリゾートに戻ったそうだ。
1934年に建設された尖山埤は、本来新営や塩水などの製糖工場の用水のために建設されたダムで、製糖工場が操業を停止してからは、観光路線をとることにした。リゾートは中国風の庭園にダムの風光明媚な景色を組み合わせ、2003年10月には25万人が訪れた。
尖山埤の美しい風景、水辺のロッジなどの景観は名勝の日月潭にも引けを取らない。サービス部の林永存支配人は、台湾糖業本社に勤務していたが、高雄の観光スクールで2年間の指導を受けてから、蕭啓良副社長と共に観光業に奮闘している。林支配人によると、かつての台湾糖業では毎年11月から翌年3月の製糖シーズンこそ忙しいものの、その他の時期は暇だったと言う。今では毎日8時間以上、必死で働く。
製糖用水の供給という役割を終えた尖山埤では、鳥が飛び交い、美しい観光船が緩やかに湖水を滑っていき、まさに観光にうってつけの名所である。リゾート経営は、しかし簡単にはいかない専門的な分野である。そこで台湾糖業では長年高級ホテルの経営経験がある康富雄氏を招いて、蕭啓良副社長や林支配人などの指導を依頼している。
尖山埤では専門家を招聘したが、現在開発中の流通事業部では専門チームを招いて、ワンセットでの技術移転を進めている。
オープンして直ちにテナント9割が埋まった台湾糖業のショッピングセンターは、広々とした空間に大型駐車場を備え、アメリカ式の郊外型ショッピングセンターを目指している。消費者が車で買い物に来られるように、4万平米近い敷地には1000台の駐車スペースが設けられた。
台湾糖業は流通事業に経験不足であるので、これを補うためにコンサルタント会社に売り場の企画を任せると共に、初期段階では多くの専門チームを招聘し、台湾糖業の生え抜き社員を指導させた。こうして幹部に技術移転を実施したのである。
2003年末にオープンした台湾糖業エバーグリーンローレルホテルも同じ経営モデルで、土地と資本を台湾糖業が負担し、経営陣はエバーグリーンのホテルグループから派遣されている。

(左・右)広大な土地資源を有する台湾糖業は、サービス業や流通にも進出している。写真は台南県仁徳郷の郊外に隣り合わせにある台湾糖業ガソリンスタンドとショッピングセンター「カーニバル」だ。
損益に責任を持ち、成長を目指す
プロフィットセンター制度を実施して損益に責任を持たされたため、各事業部はこれまで見られなかった積極性を見せるようになった。
「尖山埤リゾートは第1期開発で2億4000万台湾ドルを投資しました。成果が出なければ第2期以降はありえません」と、江南リゾートの蕭啓良副社長は話す。そのため、業績のプレッシャーは大きい。
さらに、事業部の間にも一種の競争関係が生まれている。たとえば、台東県池上郷ではモンゴルのパオを取り入れた台湾糖業の牧場リゾートがオープンしていて、業績はリゾート部門のトップを占めていた。ところが江南リゾートがオープンすると、それが牧場リゾートにプレッシャーとなったのである。
江南リゾートとの競争に直面し、400ヘクタールの広大な草原を擁する牧場リゾートでは、去年6月に台北市立動物園からカバやカモシカ、シマウマなどの草食動物を引き取って、牧場体験の特色を一層強化している。
新しい資産の発見
呉乃仁前社長が、民営化まではリストラしないと保証したにもかかわらず、台湾糖業の社員には不安な空気が漂っている。前回のリストラの後にも、台湾糖業の経営陣は現有の5500名がなお多すぎると考え、早期退職プログラムを推進している。経営陣としてはやむをえない選択で、厳しい市場競争と不透明な民営化の動き、そして事業部独立後の配置などから、常に失業の可能性がある。こういった環境の変化に対応するように、若手から中堅まで、職業訓練を受けて新しい事業部設立の先鋒になろうという意欲も高い。この転換期に、台湾糖業は大切な資産である人材の育成を学ばなければならないだろう。
民営化は怖くないと、10数年来台湾糖業で胡蝶蘭の栽培に当たってきた許さんは話す。事業部設立に対しても、烏樹林の技術スタッフは自分たちの技術を頼みに賛成の立場を表明した。問題なのは設立方法、そして経営陣が市場を理解しているかどうかだと許さんは続ける。
最近の取締役会で、砂糖事業部の設立が延期された。台湾糖業の解散を主張する政治大学の黄邵恒助教授は、解散が政治的に不可能ならば、いかに経営するかが問題だと言う。「民営化を探る台湾糖業ですが、誰がその莫大な資産を引き受けるのでしょうか。国民党が独占していた時代が過ぎても、今度は別の人が台湾糖業の資産を狙う可能性はないでしょうか」と黄教授は問う。
台湾糖業の改革は社会的公平の問題に関ってくるため、より複雑な面を見せる。
台南県仁徳郷の台湾糖業カーニバルは試験営業を開始したばかりだが、新しいアメリカ式のショッピングセンターとサトウキビ畑が路を隔てて向い合い、ガソリンスタンドが夕日に映える。一世紀にわたり、農業から製造、流通、サービス業に手を伸ばす巨人、それが台湾糖業なのだろう。サトウキビ畑の傍に立つショッピングセンター、台湾糖業が新しい姿で農業時代の思考を乗り越えていく姿を思わせる。