忘れられた「エルモサ」時代
「東西の文献から、和平島は台湾北部の歴史のスタート地点だったことがわかります」と歴史家で作家でもある曹銘宗さんは言う。とりわけスペイン人が占領した1626~1642年は見逃すことができない。。
この短い16年間、極東でのオランダの勢力拡大を防ごうと、スペインは和平島を拠点として台湾北部を占領した。元からの住民である平埔族のバサイ人や中国大陸から移ってきた人たちがいたが、スペイン人が来たことで島に初めて統治者が出現し、基隆の代表的存在だった和平島が世界史の舞台に登場する。
スペイン人に続き、オランダ人、フィリピン人、フランス人、日本人、琉球や朝鮮半島からの人々がこの地を踏む。今は静かなこの島が、かつてこれほど賑わっていたとは想像し難い。
この時期の歴史は埋もれかけていたが、その発掘を始めたのが、スペインから来た歴史家のホセ‧エウヘニオ‧ボラオ‧マテオ(鮑暁鴎)教授だ。教授は台湾大学外国語学科で長年教鞭を執り、すでに台湾国籍を持つ。かつてスペイン人が短期間台湾を治めていたことを教授が知ったのは約30年前、それで初めて台湾を訪れた。興味津々で台湾北部の歴史スポットを回ったものの「何も見つかりませんでした」と言う。
オランダや日本より統治期間が短く、また時代も古いために史料はほとんど残っておらず、この時期の歴史は消失しかけていた。その後、教授は和平島での考古学プロジェクトなど、基隆における数多くの研究を積極的に進め、歴史の痕跡を蘇らせてきた。
彼に続く人もいる。中央研究院台湾研究所で副研究員を務めていた翁佳音さんは、17世紀の台湾史を専門とし、閩南語、日本語、スペイン語、古オランダ語にも明るい。台湾にスペイン人が存在した証拠を、翁さんは音声学と固有名詞学によって明かそうと試みた。
例えば地名「三貂角」は、翁さんの推測によれば、台湾東部を航行したスペイン人が岬を「サンティアゴ」と名づけたことからきており、また「野柳(台湾語でia-liu)」は、スペイン語で「悪魔の岬」を意味する「Punta Diablos」が語源だという。その辺りに暗礁が多く、原住民の襲撃に遭うリスクがあったためとも考えられる。
しかも、翁さんと前出の曹銘宗さんは長年の仕事のパートナーで、幾度も共著で歴史関連書を出版している。基隆市出身の曹さんは、ふとしたきっかけで和平島のフィールドワークにのめり込むようになり、そればかりか、集めてきた歴史的証拠を整理し、1626~1642年の和平島を舞台にした歴史小説『艾爾摩沙的瑪利亜(エルモサのマリア)』を完成させた。
エルモサとは何か。「ポルトガル人とオランダ人は台湾をフォルモサと呼びましたが、スペイン語ではエルモサなのです」と曹さんは説明する。和平島の歴史は、この激動の「エルモサ」時代を抜きにしては語れない。

和平島市場は島で最初に漢人が集落を作った場所にある。