ケシでなく樹木を
そうしたメーソート一帯と、タイ北部の状況は大きく異なる。第二次世界大戦終結後、国共内戦や中国各地の陥落にともなって、多くの中華民国国軍が雲南地方からミャンマー北部やタイ北部へと撤退した。
映画『異域』に、当時の状況が描かれている。この孤立した軍隊と彼らの子女たちは、タイでの居住が許され、市民権も得たものの、居住地は制限され、暮らしも貧しかった。多くは茅葺き小屋のような所に住み、水道や電気もなく、衛生状況も悪かった。
1950年代からは中華救助総会による支援が始まり、タイ北部に大量の義援物資が届けられるようになった。1982年には、中華救助総会がタイ北部で現地住民を支援する初めての非営利組織となり、建華高校や光華中学などの華語学校を建設したり、国軍の子弟たちが台湾で学校に入る支援も行なった。また、夏休みや冬休みには、台湾の文藻や静宜といった大学で海外へのボランティア・チームが組織された。
慈済基金会は、11年前に中華救助総会の招きでタイ北部のチエンラーイを訪れ、学校を設立した。慈済基金会タイ分会の林純鈴CEOによれば、タイ北部一帯は辺境であることから交通も不便で、教師の招聘も容易ではない。そこで、良い待遇で教師を招聘するなどの教育支援を行うほか、自力で生活改善が行えるよう、住民に茶や果樹の栽培を指導している。
1970年代に台湾とタイ両国の政府が協力して進めたタイ王室プロジェクトでは、台湾の農業技術をタイ北部に導入し、現地住民の自立支援を目指した。
プロジェクトの始まりは1968年のことだった。タイ、ミャンマー、ラオス三国の国境一帯は山脈が連なり、カレン、ヤオ、ミャオ、アカ、リスなどの少数民族が伝統農業を続けてきた地域だった。木を切り開き、山を焼く彼らの農耕が環境には悪循環となり、タイ北部の耕地面積は次第に減少、貧しくなった農民はケシ栽培に活路を見出した。1960年代末にはタイ北部のアヘン生産高は年150トンにも達していた。
莫大なアヘン生産高は、住民に富をもたらさなかっただけでなく、山岳地帯の環境を深刻に破壊した。麻薬氾濫の状況を阻止し、農民の生活を改善するため、タイのプミポン国王は、各国の使節をタイ北部に招いて解決策をさぐり、1969年にタイ王室プロジェクトを立ち上げた。それに対してイギリス、アメリカ、韓国、日本などが次々と応じ、台湾からも国軍退除役官兵輔導委員会が、1971年に温帯果樹の苗2000株を空輸した。また、当時の福寿山農場長であった宋慶雲氏がタイ北部を視察し、その後、アンカーンとドイプイに模範農場を設立、やがて栽培種も果樹から野菜、花へと徐々に広げていった。
1983年に王室プロジェクトは基金会設立へと発展し、台湾側の農業指導組織も、国軍退除役官兵輔導委員会から国際合作発展基金会へと移った。とはいえ両国の協力は今でも継続している。40年の間に、タイ北部におけるケシ栽培拡大の問題を解決できただけでなく、住民の暮らしも大きく改善された。バンコク市街の専門スーパーやレストラン・チェーンに行けば、「王室プロジェクト」と表示された野菜や果物が売られているのを見かけるはずだ。
場所を首都バンコクに移そう。2015年から慈済基金会も、米国務省と国連難民高等弁務官事務所の委託を受けて、バンコクで医療支援プロジェクトを展開している。国連の統計によれば、バンコクには年7000~9000名の難民が在留する。政治的迫害や宗教的理由で故郷を離れざるを得なかった人々が、ここで第三国の受け入れを待っているのだ。
自身も難民であるミャンマーのマウン医師によって設立されたメータオ・クリニックは、ミャンマーから逃れてきた難民や労働者のために医療を提供している。