文氣十足「韓愈祭」,全台獨一昌黎祠

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2002 / 11月

文‧蔡文婷 圖‧林格立


每逢考季,屏東縣內埔鄉的昌黎祠就會湧進大批考生,向韓文公,也就是唐朝大文豪韓愈祈求文采與考運。不同於一般比「神氣」的寺廟,這座台灣唯一的昌黎祠,每逢韓文公的壽辰,熱鬧慶祝中更顯「文氣」十足!


九九重陽,屏東縣內埔鄉的昌黎祠湧進了大批信徒。與一般寺廟大不相同的是,除了老人家,更多孩子在長輩的帶領下,前來向韓文公祝壽。「要向韓文公燒香,考試才會得第一,」長輩們一旁殷殷囑咐。一位小學五年級的鍾小妹妹說:「那我要拜兩次,兩次月考才會都得第一。」

有考必拜

祠堂內,兩邊牆壁上,掛滿了全省各地各種考生的准考證影本,除了中學生基本學歷測驗,碩、博士招生,出國留學考,還包括檢察官、書記官、法警等公家考試,甚至有人將求職的面試通知都掛在上面。每逢六、七月考季,昌黎祠更是人山人海,寸步難行。

內埔鄉昌黎祠是台灣唯一以韓愈(韓文公)為主祀神明的寺廟,也是全台莘莘學子們的保護神。「自古早,阮內埔鄉就出過很多進士、舉人,這全是韓文公的保佑,」昌黎祠主任委員鍾正雄表示。今年就有一位遠從宜蘭來的考生,因為通過特考,前來還願,還給韓文公包了三萬元的大紅包;平日打金牌前來致謝的也不少。四名屏東科技大學四年級的女學生,為了明年的碩士考試,手執清香,報上姓名和年紀,口中叨唸著:「天圓地方,四平八穩,金榜題名,光宗耀祖」,虔誠地向韓文公上香。

韓愈到台灣

有一首內埔地區的童謠說:「古早廟,尚神奇:天后宮,拜福氣,韓公祠,拜考試,有燒香,有保庇。」家住昌黎祠附近、四十多歲的張國榮說:「從小我們都知道韓文公,到了國中,才知道原來他就是唐朝的大文豪韓愈。」

說起韓愈與內埔鄉民的關係,得從西元八一九年、唐憲宗時說起。一千一百八十三年前,唐憲宗派人前往陝西法門寺迎取佛指舍利至京師,王公大臣以至百姓,大家競相膜拜供養,當時五十二歲的韓愈,在朝擔任刑部侍郎(相當於今天的司法院副院長),認為這種事太過荒唐,於是寫了一篇〈論佛骨表〉,認為迎接佛骨傷風敗俗,傳笑四方,許多迎過佛骨的皇帝甚至早逝,氣得皇帝要殺韓愈。幸賴諸大臣全力營救,才免了死罪,但卻被貶放到當時還屬蠻荒瘴癘的廣東潮州。

儘管到了偏遠之地,然而韓愈卻努力以對,對地方多所建樹,尤其是興教化、擢人才。宋代文豪蘇東坡所寫的〈潮州韓文公廟碑〉,就說「自是潮之士,皆篤於文行。」潮州人感念韓愈的德政,於是立祠崇拜。明清之際,附近的鄉縣皆奉韓愈為地方守護神。來自廣東一帶的內埔鄉客家族裔,祖先在東渡台灣時,依照潮俗,奉請韓文公神像前來祭祀。

在昌黎廟裡,除了奉祀韓愈,兩邊分別是當時被韓愈請來執掌教育的趙德,以及韓愈的姪兒韓湘——民間傳說的韓湘子。「一封朝奏九重天,夕貶潮陽路八千;欲為聖明除弊事,肯將衰朽惜殘年;雲橫秦嶺家何在,雪擁藍關馬不前,知汝遠來應有意,好收吾骨瘴江邊。」昌黎祠牆上掛著一塊匾額,上面刻著韓愈的詩文,道盡他的剛正,而這一首詩書寫的對象,正是前來送行的韓湘。

講堂新聲

內埔鄉昌黎祠的興建有兩種說法,一是清嘉慶八年(西元一八○三年),由內埔鄉先賢鍾麟江所倡建,一說是道光七年(西元一八二七年),由武生李孟樹創建。當時,距離內埔庄最近的鳳山縣儒學有二十里路遠,因此鄉民們就在昌黎祠內延師訓導,教育人才。一時間文風鼎盛,出了歲進士邱國禎、進士江昶榮、舉人邱雲鵬、曾中立、曾偉中、李向榮等等。倡建人鍾麟江並在昌黎祠設立祀典會,資助講學的老師和就學的孩子,另外還設有「六堆科舉會」,提供參加「鄉試」和進京趕考士子們的盤纏。

即使是日據時代,昌黎祠都還是孩子們的「漢文」學堂。「我們小時候,進國小之前,都是一個鹹水索(藺草)袋子,裝著三字經、唐詩幾本書,還自己帶著小椅子,在昌黎祠讀漢文的,」今年六十多歲的主任委員鍾正雄和總幹事邱洪鈞都還記得,當年大概有近三十位的孩子在昌黎祠跟著老師唸讀。

昌黎祠孩子們琅琅的讀書聲,在日據末期、戰亂開始之後不再聽聞,除了考試旺季,人們似乎漸漸淡忘昌黎祠與一般寺廟的不同。不過,在去年,包括曾達仁、劉孝明、李安琪、黃紫環、張偉正等一群內埔鄉「五年級」的中壯年人集合起來,讓昌黎祠再現過去文化講堂的風光。

「你可以看到昌黎祠這一個以文化教育為主的主題廟,經常有青年學子出現,」家就住在昌黎祠附近的屏東社區大學主任秘書劉孝明指出,「考試時到昌黎祠拜拜,是內埔一帶孩子的共同記憶。我們希望能以此為基礎,恢復它過去『講堂』的角色,讓它具有現代文教基金會的功能。」

一群年輕人齊聚,以曾達仁的書店為基地,當時距離韓愈壽誕只剩一個月,因此每個人提出他們手邊現有的資源,再將資源與昌黎祠連結,例如讓社區大學的實驗劇團與韓愈最知名的〈祭鱷魚文〉結合,推出露天劇場。版畫家黃紫環則將韓愈的造像設計成木刻版畫,供民眾自行拓印成「金榜符」等。

有了初步的構想,他們很快就向管理委員提出想法。由於經費幾乎不需廟方支付,管理委員會也就姑且讓年輕人試試看。去年九月九日韓文公生日當天,寺廟推出第一屆《韓愈祭》,除了祭鱷魚文的露天劇場,金榜符拓印,還有藏書票展、文公帕植物染、老照片講座。單單是排隊製作金榜符的民眾就排到昌黎祠外,又繞了好幾圈。

第一屆韓愈祭花費不到十萬元,卻成功地打響昌黎祠的名聲,同時也讓民眾進一步瞭解昌黎祠文廟的特殊性格。

親子學韓愈

第一屆韓愈祭舉辦之後,外縣市來祈拜的民眾明顯增多,一位媽媽也十 分感動地說:「內埔鄉從來就沒有什麼文藝活動,想不到今天在我們家門口就有這樣的文藝季。」今年第二屆的韓愈祭,老一輩委員更加放手讓年輕人去發揮,一連三天擴大舉行,一方面以更精緻、多面向的活動來介紹韓愈,一方面擴大結合內埔鄉與屏東縣客家社區,讓韓愈祭成為客家族群引以為傲的文化特色。

十月十四日第二屆昌黎祭首先開場的是韓愈文學講座。屏東縣社區大學講師郭惠蕊以韓愈的〈祭十二郎文〉來談現代社會的生死教育;台北師院社教系講師曾喜城,以昌黎祠來談韓愈與客家族群的特殊關係。而一場「親子學韓愈」的活動,更令大人、小孩有趣地進入韓愈的文學世界。

「好久好久以前,龍只是一隻在地上爬行的普通動物,有一天牠發現自己可以吐出美麗的雲朵給人們帶來許多喜悅,於是牠努力地吹出雲氣,凝成朵朵祥雲。終於,龍乘著雲,飛上天空,成為最有威力又吉祥的神龍。」這出自韓愈〈雜說〉的文章,屏東社區大學副主任戴珍妮以一個龍頭,幾把畫著麟片的雨傘,讓孩子在操作中,瞭解韓文公期許孩子們都能靠著自己的努力,終能龍飛在天的心意。

好個硬頸的韓文公

第一天的活動,動員了屏東社區大學的師資與人力,而當晚的「大夥房音樂祭」與第二天的文化古蹟巡禮及客家秋歌,則又加入了屏東平原文化協會、內田社區發展協會、客家公益會、鄉土語言權益促進會等各路客家人馬前來助陣。「我們希望藉著韓愈祭,形成客家族群的大連結,」前鄉民代表、也是第一屆發起人的張偉正表示。

包括附近許多國小的師生們,都專車前來參加。學生們拿著過五關的地圖,一一認識客家族群用來燒化文字的惜字亭,形似閩南人墳塚的胎形伯公(土地公),還有大樹公和門簾製作。最後一關則是以毛筆寫上一首唐詩,然後在韓文公神像前朗誦,這樣的禮拜,意義深具,許多長輩在旁不禁拍手稱好。

說起韓愈與客家人的結緣,是他生命的一個偶然,然而追究客家人對韓文公的崇拜卻是有跡可尋。

「韓文公的精神與阮客家人很像,」地方耆老劉閏安解釋,「韓愈膽敢在朝野沈迷於佛教當時,諫迎佛骨,不驚被殺頭,就係阮客家人的『硬頸精神』。」此外,韓愈在潮州延師興學,對教育的重視,也與客家人相同。「過去祖先來台,一邊開墾,一邊興學,晴耕雨讀本來就是客家人的傳統,我們的父母都是賣田、賣地也都要給孩子唸書的,」總幹事邱洪鈞表示。

琅琅書聲傳不盡

活動的最後一天,也是韓文公九月九日的誕辰。一大早,白牆黑瓦、形式素雅,十分具有內埔客家建築特色的昌黎祠已擠滿了回來上香的義子和香客。

朱色的大門寫著「禮門」、「義路」。中庭的兩邊擺上全豬與全羊。吉時一到,傳統客家八音的嗩吶聲高高拔起,副縣長吳應文與立法委員曹啟鴻穿著唐代禮服,進行獻花、獻果、獻酒的三獻禮,隨後穿著長袍的管理委員們開始繁複而隆重的祭典。

「諸生分班侍立,肅靜,各供乃職,無倦厥禮。」司儀吟唱每一道祭典的步驟,司鼓生擊鼓三通,司鐘生鳴金九響,啟扉生啟扉……,這時韓文公神像前的黃色幃縵揭開,左手持書的韓文公正式接受眾人的賀壽。

主祭生領著所有祭生,步出門外盥洗,象徵潔淨。接著執事生拿著娘傘與掌扇接神,眾人行三跪九叩大禮。主祭生在韓文公面前開始跪讀祭文,恭維「文公後孔孟而誕生,為大唐之名儒,……文章筆下,風煙揮霍,起八代狂瀾,做一朝之柢柱。……,禮行三獻,鑒此微誠,庇我後學,人文蔚起,世育賢才。」整個祭典約有二十個步驟,一個多小時,沒有狂亂的神乩,也沒有喧鬧的酬神戲,就是這樣嚴謹而素樸的儀式,傳達客家族群對於韓文公的深深敬意。

一千一百多年前,一個唐朝大文豪的貶放,與南方廣東潮州的百姓結下因緣。說來,韓愈在潮州不過八個月的時間,卻贏得百姓們千百年的愛戴,香煙祭祀代代不輟。

正廳裡,「嶺南師表」的匾額高高在掛,內埔鄉富田國小的孩子們穿著唐裝,清脆地以客語朗頌唐詩。韓文公的精神典範,已活生生地深入內埔鄉每位鄉民的生命裡。

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文学と学問の神様韓愈を祭る台湾唯一の昌黎祠

毎年受験シーズンともなると、屏東県内埔郷にある昌黎祠には数多くの受験生が集まってくる。ここに祭られている韓文公、つまり唐代の大文章家である韓愈に文運と合格を祈願するのである。神仏を祭るよその寺や廟の祭りとは異なり、台湾では唯一のこの昌黎祠では韓文公の生誕記念ともなると、賑やかな中にも文人の気が溢れるようである。


旧暦9月9日の重陽節ともなると、屏東県内埔郷の昌黎祠には多くの信者が集まってくる。普通の寺や廟の参りとは異なり、お年寄りばかりではなく親に連れられた子供たちがぞくぞくと韓文公の生誕を祝いに来るのである。「韓文公にお香を上げると、試験で一番になれるよ」と親が子供に言い含めると、小学校5年生の娘は「じゃあ、2回お参りするわ。中間テストと期末テストと両方一番になれるよね」と答える。

試験には必ず参拝

昌黎祠の中に入ると、両脇の壁一面に台湾各地から訪れた様々な受験生の受験票のコピーが貼ってあるのが見られる。韓文公に自分の受ける試験を間違いなく確認してもらうためである。中学生の学力基本テストに始まり、大学院の入学試験、留学生試験、さらに検事、書記官、司法警察などの国家試験までさまざまで、中には就職試験の面接通知を貼る人までいるではないか。6月から7月にかけての台湾の大学受験シーズンともなると、昌黎祠は参拝者で一杯となり身動きが取れなくなる。

屏東県内埔郷の昌黎祠は台湾で唯一つ、唐代の大文章家韓愈を主神とした廟で、また台湾全土の受験生の守護神である。「昔からこの内埔郷は進士、挙人(昔の高等文官試験である科挙の各段階の合格資格の名称)を多く出してきましたが、これも韓文公のおかげです」と、昌黎祠の主任委員鍾正雄さんは話す。今年も遠く宜蘭県からお参りに来た人が難しい国家試験に合格したからと、お礼参りとして3万台湾ドルのお賽銭を上げたと言う。また金のメダルを特注して、合格のお礼に奉納に来る人も数多いそうである。ちょうど屏東科学技術大学4年の女子大生4人が来年の大学院入試に向けてお参りに来ていて、「天円地方、四平八穏、金榜題名、光宗耀祖(天は丸く地は四角、四方八方安泰、合格発表に名が載り、祖先の名を上げる)」とお決りの祝詞を唱えながら、真剣にお香を上げていた。

韓愈、台湾に来る

内埔郷の童謡には「古早廟、尚神奇、天后宮、拝福気、韓公祠、拝考試、有焼香、有保庇(古いお寺は不思議があって、天后宮は福の気あって、韓公祠は試験参り、お香を上げれば願いがかなう)」と歌われていた。昌黎祠の近くに住む40過ぎの張国栄さんは、「小さい頃から韓文公で慣れ親しんできましたが、中学校になって唐代の文章家韓愈だったと初めて知りました」と話す。

韓愈と内埔郷との関係と言うと、まず話は遠く西暦819年、唐代の憲宗の時代に遡る。1183年前に憲宗は陝西省の法門寺に人をやって、仏様の指の舎利を都にお迎えすることにした。王侯貴族から民百姓に至るまで、都の人々は先を争って迎えられた仏舎利をありがたく拝んだのだが、当時52歳で刑部侍郎(現在の法務省次官相当)に就いていた韓愈はこれを伝統の公序良俗を乱すものと考えた。

そこで「仏骨を論ずる表」を書いて上奏し、仏の骨などを迎えて拝むのは公序良俗に反するもので、これまでにもこんなものを迎えた皇帝が早死にしていると論難した。この上奏文を見てさすがに激怒した憲宗は、韓愈を殺そうとしたのであるが、幸いに大臣たちが全力をあげて命乞いをしたために死罪だけは免れたのである。しかし、当時としては僻遠の地、伝染病の蔓延する広東省潮州の長官に左遷となった。つまり流罪である。

辺境の地に流されたとはいえ、韓愈はその地の長官として業績を上げ、とくに教育に力を注いで多くの人材を抜擢した。そこで宋代の文章家蘇軾は「潮州韓文公廟碑」を書いて「これより潮州の士は皆篤く文を行う」と評し、潮州の人々が韓愈の善政に感激して祠を建てて祭ることになった経緯を語った。さらに下って明清時代になると、近隣の諸県は韓愈を地方の守護神として祭るようになっていたそうである。そのために広東一帯から台湾に移住してきた内埔郷の客家の末裔たちも、祖先が台湾に渡ってきたときに潮州の習慣として韓文公の神像をお迎えし、その祭祀を代々受け継いできたのである。

昌黎祠では、主神の韓愈と共に両脇にそれぞれ韓愈がその当時教育を所轄させるために招いた趙徳と、韓愈の甥の韓湘、民間の言い伝えでは八仙人の1人に列せられている韓湘子が合せて祭られている。「一封 朝に奏す九重の天、夕べに潮州に貶せらる 路八千、聖明の為に弊事を除かんと欲す、肯えて衰朽をもって残年を惜しまんや、雲は秦嶺に横たわって 家何くにか在る、雪は藍関を擁して 馬進まず、知る 汝が遠く来る まさに意あるべし、よく吾が骨を収めよ、瘴江のほとり」と、昌黎祠には罪を得て流された時の韓愈の作、「左遷されて藍関に至り、姪孫の湘に示す」を書いた額が掲げられていて、その剛直な人柄がうかがえる。「朝に上奏すると夕べには潮州に流されていた、聖明の天子のために弊を除こうとするのだから、老残の身を惜しむものではない。雲は秦嶺(長安の南の名山、終南山のこと)にたなびき、我が家はどのあたりにあるのだろうか。藍関(長安近辺の関所)を雪が埋めつくして馬はなかなか前に進まない。この遠くまで見送ってくれたお前には何か考えるところがあるのだろう、瘴癘の地の川のほとりで私の骨を拾ってくれろよ」と呼びかけたその相手は、見送りに来た甥の韓湘だったのであ。

講堂に学びの声

内埔郷の昌黎祠の創建には二説がある。その一つは清の嘉慶八年(1803年)に内埔郷の先賢の鍾麟江が建てたという説、もう一つは同じく清の道光七年(1827年)に李孟樹の創建になるというものである。その当時、内埔庄から一番近い鳳山県の儒学(儒教を教える学校)でも20里離れていたので、村人たちは昌黎祠に先生を招いて教育を施し、人材を育てたという。その甲斐あってかこの地の文風は盛んとなり、進士及第の邱国禎、江昶栄、挙人及第の邱雲鵬、曾中立、曾偉中、李向栄などの文人を輩出してきた。創建者である鍾麟江は昌黎祠に祀典会を設立すると共に、招聘した先生や就学する子供のために学費の援助まで行った。そればかりではない。六堆科挙会を開設して、遠く省都や都の試験に赴く受験者たちに、旅費を提供したのである。

この気風はその後も長く受け継がれていき、日本時代においては昌黎祠は子供たちが漢文を学ぶ場であった。「小さい頃、小学校に上がるまではイグサを編んだ袋に三字経(初学者向けの識字用教本)、唐詩などの本を入れ、自分の小さな腰掛ももって、昌黎祠に行っては漢文を学んだものでした」と、今年60何歳かになる鍾正雄主任委員と邱洪鈞総幹事は思い起こす。その頃、30人ほどの子供が昌黎祠で先生の後について漢文を読み上げていた。

昌黎祠に響いた子供たちの漢文の声は、日本時代の末期、戦争が激しくなると共に聞かれなくなってしまった。その後は受験シーズンには合格祈願の参拝者で賑うものの、昌黎祠がほかの寺や廟とは異なる特色が次第に忘れられていったのである。ところが去年、曾達仁、劉孝明、李安琪、黄紫環、張偉正など内埔郷出身の30代から40代の壮年世代が集まり、文化の講堂としての昌黎祠の隆盛を取り戻そうと動き出した。

「昌黎祠は文化や教育を主とした廟で、若い学生さんがよく訪れるのが見かけられます。試験のときに昌黎祠にお参りするというのが、内埔一帯の子供の共通の思い出です。私たちはこれを足がかりに、かつての勉学の講堂としての役割を回復させ、現代の文化教育法人のような機能を昌黎祠に持たせたいと考えているのです」と、この付近に住む大学の事務長の劉孝明さんは話す。

若い世代が集まり、曾達仁さんが経営する書店を拠点としたのは、韓愈の生誕記念の日からわずかに1ヶ月ほど前のことであった。そこでそれぞれが自分の特技や人脈を生かして、ここから昌黎祠と結びつけた企画を立てることにした。例えば、屏東コミュニティ大学の実験劇団は韓愈の著名な「鰐魚を祭る文」を取り上げて、野外での舞台公演を行うことにし、版画家の黄紫環さんは韓愈の肖像を元にした木版の版木を作成した。参加者はこの版木を使い、自分で自由に金榜符(合格のお札)などを印刷できるというアイディアである。

こういった企画が提案されると、ただちに管理委員会に構想を提出した。これらの企画の経費について昌黎祠側ではほとんど負担する必要がないというので、管理委員会でも若い人に任せてみようということになり、去年9月9日の韓文公生誕の日の当日、第1回韓愈祭が行われることになった。鰐魚を祭る文の野外の舞台公演、金榜符の版画の作成だけではなく、ブックプレートの展示、草木染めの文公ハンカチの実演製作、古い写真の講座などが合せて行われた。木版のお札を作る人の列だけでも、昌黎祠の回りを何周もしたという。

第1回の韓愈祭の経費は10万台湾ドルほどだったのに、昌黎祠の知名度を高めるのには大成功であり、また廟の特殊な性格を一般に知らせるにも大いに役立った。

親子で学ぶ韓愈

第1回韓愈祭が行われた後になると、県外から昌黎祠を訪れる参拝客がはっきりと増加した。あるお母さんは嬉しそうに「内埔ではこれまで文化的イベントなど何もなかったのに、家の前でこんなイベントを見られるなんてほんとうに幸せです」と語る。この成功のおかげで、今年の第2回韓愈祭では年配の委員たちも安心して若い世代に企画を任せることになり、期間も3日に延長された。多彩なイベントで韓愈を紹介すると共に、内埔郷と屏東県の客家コミュニティが協力し、韓愈祭は客家の誇る文化イベントにもなってきた。

10月14日の第2回韓愈祭は、まず韓愈の文学講座から始まった。屏東県コミュニティ大学の郭恵蕊講師が韓愈の「十二郎を祭る文」をとりあげ、現代社会の生死に関する教育を論じ、また台北師範学院社会教育学科の曾喜城講師は昌黎祠と客家人との関係を話した。また「親子で学ぶ韓愈」のイベントでは、大人も子供も楽しく韓愈文学の世界に入っていけるように工夫が凝らされている。

「昔々の大昔のこと、龍は地面を這いまわるただの動物だったのです。それがある日、龍は美しい雲を吐き出して人間を喜ばせることができるのに気がつきました。そこで頑張って一生懸命雲を吐き出し続けたのですが、それが集まっていくつもの瑞雲になっていきました。そしてとうとう、龍はその雲に乗って天に飛んでいき、天界でも一番力があり、しかもめでたい神龍になったのです」と、韓愈の「雑説」の文章を下敷きに、コミュニティ大学の副主任戴珍妮さんは語る。戴さんは小道具に龍の頭や鱗を描いた雨傘を用意し、子供たちが自由に手に持って龍の気分を味わえるように工夫する。こうして自分の努力で空を飛ぶ神龍になった龍の心意気を伝えようとした韓文公の期待を、子供たちに理解させるのである。

硬骨漢、韓文公

初日のイベントでは屏東コミュニティ大学の教師陣が総動員されたが、その夜の音楽祭や二日目の文化古跡巡り、それに客家秋歌のイベントでは屏東平原文化協会、内田コミュニティ発展協会、客家公益会、郷土言語促進会など、客家系の団体が手助けに駆けつけた。「私たちは韓愈祭をきっかけに客家の団結を促したいのです」と第1回韓愈祭の発起人張偉正さんは胸を張る。

付近の小学校の先生や児童もバスに乗ってやってきた。児童はそれぞれに手渡された関門の位置が記された地図を片手に、古跡を探り当てていく。まず客家の人々が文字の書いてある紙を祀るために焼いた惜字亭から始まり、福建省の人から見るとお墓に似た形の客家特有の土地神様のお社、さらに大木として祭られる大樹公や門口に貼る対句の製作クラスなどが続く。最後の関門は、毛筆で唐詩を一首書いて、韓文公の神像の前で読み上げるものである。こういった参拝の方法は文章家の韓文公とも深くかかわる意義があり、年配の人の多くは傍らにいて思わず拍手していた。

韓愈と客家の人々の縁と言えば、流罪というその生涯における偶然の機会から始まるのだが、客家の人々の韓文公への崇拝は歴史的に後を辿ることができる。

「韓文公の性格は私たち客家人に似ています。朝野こぞって仏教に夢中になっていた時代に、仏舎利を迎えることに堂々と反対した韓愈、処罰も恐れないその性格は、まさに客家人が言う硬頚(硬骨)の精神です」と、この地の長老劉閏安さんは説明する。それに韓愈が潮州で先生を招聘し学校を起こし、教育を重視したというのは、客家人も共感する。「その昔、祖先は台湾に移住してきて、開墾しながら学校を作りました。晴耕雨読というのが客家の伝統です。私たちの親は田んぼを売ってでも子供たちに教育を受けさせてくれました」と邱洪鈞総幹事は話してくれた。

朗々と響く読書の声

イベントの最後の日は、韓文公の生誕記念の旧暦9月9日に当る。白壁に黒い瓦屋根と、内埔郷の客家建築の特色をよく表している昌黎祠には、朝早くから、お香を上げに来た信者や参拝客が続々と詰めかけてきている。

朱色の大門には「礼門」や「義路」と書かれ、中庭の両脇にはお供えの豚と羊が丸ごといくつも並べられた。めでたい時刻が来ると、伝統的な客家の八音階の嗩吶(中国の伝統音楽に用いる楽器、チャルメラに似たラッパ)の音が高々と響き、副県知事の呉応文氏と国会議員の曹啓鴻氏が唐代の礼服で現れ、花、果物、酒の三種を献ずる三献の礼を行う。続いて長袍(昔の中国の服装)を身にまとった管理委員たちが登場して、複雑で荘厳な儀式を執り行う。

「諸生はそれぞれ整列して、静粛に、それぞれ務めを滞りなく果し、礼を執り行え」と、司会役が儀式の次第を一つ一つ告げていく。司鼓生(太鼓役)が太鼓を3回叩き、司鐘生(鐘の担当役)が鐘を9回鳴り響かせ、啓扉生(戸の開け閉め役)が扉を開くと、韓文公の神像の前にたらされた黄色の幔幕がするすると上がり、左手に書を携えた韓文公が正式に人々のお祝いを受けられるのである。

主祭生(祭生、儀式役のリーダー)が祭生全員を率いて門外に出て手を清め、清浄なことを表明する。続いて執事生が娘傘(乳母日傘)と掌扇(大団扇のような扇)を捧げもち、全員が三跪九叩頭(跪いて三回地面に頭をつけるお辞儀をし、これを三回繰り返す)の大礼を行う。主祭生は韓文公の前に跪いて祭文を読み上げる。「文公は孔子孟子の後を受けてご誕生になり、大唐の名儒者となられました。その筆になる文章は風雲を巻き起こし、八代の狂瀾を波立たせ、一朝の柱石となるものでした・・・ここに三献の礼を行います。このささやかな誠意をお汲み取りいただき、私ども後学の徒をお守り頂き、人文の気風を盛んとして、世々賢才をお育て下さい」と言葉は続いていく。

儀式はおおむね20の式次第に分かれて進行していき、全体で1時間あまりで終了した。そこには狂乱する神懸りの神子もいなければ、賑やかきわまる神に捧げる芝居公演もない。こうして静かに厳粛な中で質素な儀式が上げられ、客家の人々の韓文公に対する深い尊敬の念が周りにも伝わっていったのである。

1100年あまり前、唐代を代表する大文章家が遠い南方に流罪となり、広東省潮州の人々と縁を結んだ。韓愈が潮州に滞在した期間はわずか8ヶ月に過ぎなかったのだが、その地の民より1000年を越える尊敬を勝ち得て、祭りのお線香の煙が代代絶えることなく受け継がれている。

正殿の中には「嶺南師表」の額が高高と掲げられ、内埔郷富田小学校の子供たちが唐代の服装を身にまとって、客家語で朗々と澄んだ声を張り上げて唐詩を朗誦している。韓文公の精神は、今も尊敬すべき手本として内埔郷の民一人一人の人生に深く根を下ろしているかのようである。

Han Yu, Hakkas, and Examination Hopefuls Come Together at Changli Temple

Tsai Wen-ting /photos courtesy of Jimmy Lin /tr. by Bruce Humes

With the arrival of examination time, crowds of students preparing to take their exams are bound to pour into Changli Temple in Pingtung's Neipu Rural Township in order to pray to Han Wen Gong-Han Yu, the Tang dynasty's great homme de lettres-for literary excellence and good luck on their exams. Unlike the typical "fortune-oriented" temple, the boisterous celebrations of Han Yu's birthday at this Changli Temple-the only one of its kind in Taiwan-display a rich "literary ambience."


On the ninth day of the ninth lunar month this year (Double Ninth Festival), a mass of devotees crowd into Changli Temple, located in the Liutui of Neipu in Pingtung County. But unlike in a typical temple, senior citizens are outnumbered by children brought by their elders to wish Han Wen Gong a happy birthday. "If you want to come first in the exams," exhort those of the older generation," you must burn incense for Han Wen Gong."

"Then I am going to pray twice so I can score highest on both exams this term," says a fifth-grade young girl surnamed Chung.

Inside the temple, walls on either side are filled with photocopies of Exam Entrance Permits for all sorts of students from all over Taiwan, from middle-schoolers' core curriculum tests to entrance exams for MA and PhD candidates, exams for overseas study, public exams for candidates seeking government posts as prosecutors, law clerks or bailiffs, and even interview notices for job openings are plastered on the wall. Every June and July during the exam season, there are people everywhere you look and moving about in the temple is a real chore.

Changli Temple is the sole temple devoted mainly to the worship of Han Yu (Han Wen Gong), and he is the patron deity of all Taiwan's numerous students. "From olden times, our Neipu has produced lots of successful scholars in the imperial exams," explains temple committee chairperson Chung Cheng-Hsiung, "all thanks to the influence of Han Wen Gong."

Just this year there was a candidate who, to show thanks for passing a special exam, came from far-away Ilan to present a red envelope containing NT$30,000 to Han Wen Gong. On a typical day it is not rare to see people coming to express their gratitude with a golden tablet bearing an inscription. Three women, seniors at Pingtung University of Science and Technology who are preparing for their masters' exams next year, their hands grasping sweet-smelling incense, state their names and ages and chant in sincere prayer to Han Wen Gong: "As the sky is round and the earth is square, wherever I go may I be constant in what I do, may my name appear on the honor roll and bring honor to my ancestors."

Han Yu arrives in Taiwan

"Ancient temple, still magical, for good fortune pray at Tienhou Temple, and for success at examinations, pray at Han Gong Temple. For those who burn incense will be protected." So goes a children's folk rhyme in the Neipu area.

Says Chang Kuo-jung, a man of about 40 who lives near Changli Ancestral Temple: "We knew about Han Gong when we were small, but it wasn't until middle school that we knew he was actually Han Yu, the great literary master of the Tang dynasty."

If you want to talk about the relationship between Han Yu and the residents of Neipu, you have to go back to the days of the Tang dynasty emperor Xianzong, in 819 AD. Some 1180 years ago, Xianzong dispatched men to Famen Temple in Shaanxi to bring the Buddha's relics back to the capital city. From the emperor's ministers down to the common man, everyone was competing to pay homage to the Buddha's remains.

Han Yu, 52 years old at the time and serving as a high-ranking official in the Ministry of Punishments (equivalent to a deputy minister in today's Ministry of Justice), found this situation totally irrational. Therefore he penned a Memorial on the Bone-Relic of the Buddha, arguing that the act of accepting the Buddha's relics was harmful to social mores and made the emperor the object of derision, and that many emperors who had accepted the Buddha's remains had died ahead of their time. The emperor was so incensed that he wanted Han Yu's head. Han Yu was pardoned, but only thanks to the strong support of all the ministers, and was exiled to the Chaozhou area of Guangdong, which at the time was still uncivilized and malaria-infested.

Despite being exiled to a backwater, Han Yu worked hard and made many contributions, particularly in terms of promoting moral education and nurturing talent. In the text of the Stele for Chaozhou's Han Wen Gong written by the Song dynasty literary master Su Dongpo, it is recorded that: "After Han Yu, the literati of Chaozhou all became more earnest in their pursuit of literary excellence."

To express their gratitude to the virtuous governance of Han Yu, the people of Chaozhou established a temple to worship him. During the Ming and Qing dynasties, surrounding counties all worshipped Han Yu as a local protective deity. When they emigrated to Taiwan, the ancestors of today's residents of Neipu-as per the traditions of Chaozhou-reverently brought the idol of Han Wen Gong with them to worship.

Inside Changli Temple, besides a place of worship for Han Yu, on either side are statues of Chao De, whom Han Yu invited to come to be responsible for education, and Han Yu's nephew, Han Xiang, known in folk history as Han Xiangzi.

At dawn submitting an epistle to the heavenly court,
At dusk exiled to Chaoyang eight thousand leagues down south.
Desiring only to rid his majesty of things evil,
And willing to sacrifice what remains of my waning years.
Clouds hang menacingly over Qinling ridge, and where lies my home?
Languan Pass packed in with snow, and my horse forward cannot go.
Coming from afar you must have come for a reason,
perhaps to collect my bones from this disease-ridden riverside.

A horizontal inscription hangs high on the walls of the temple, upon which is carved Han Yu's poem attesting to his principled character. And the object of that poem was, in fact the person who had accompanied him to Chaozhou, Han Xiang.

A new voice in the lecture hall

There are two variations on how Changli Temple was built. According to one, in 1803 its establishment was sponsored by Chung Lin-chiang, an earlier man of virtue in Neipu. Another version has it that it was built by Li Meng-shu, a practitioner of martial arts. At that time, the nearest Confucian School to Neipu was in Fengshan prefecture some twenty li away, so Neipu's residents engaged a teacher to lecture and cultivate talent. For a time, a learned culture became the trend, producing successful candidates in the imperial examinations for suijinshi (Chiu Kuo-chen), jinshi (Chiang Chang-jung), juren (Chiu Yun-peng, Tseng Chung-li, Tseng Wei-chung, Li Hsiang-jung) and others.

Sponsor Chung Lin-chiang founded the Worship Rites Foundation to help pay costs for the lecturers and their students, and Liutui Keju Foundation to provide funding for candidates taking the county-level exams as well as those traveling to the capital for national exams.

Even after Taiwan was ceded to Japan, Changli Temple still served as the "Chinese" school for local children. "When we were small and before we went to elementary school, we all carried a woven straw bag holding some books such as the Three-Character Classic and Tang dynasty poetry, as well as a small stool, to take to Changli Temple where we studied Chinese." Even today, 60-year-old committee chairman Chung Cheng-hsiung and committee secretary Chiu Hong-chun still recall the sound of what were then perhaps 30 students reading out their texts with their teacher.

In the 1940s as Japan's rule neared its end and China's civil war intensified, except during "exam season," the sound of verse rolling off the tongues of students ceased to be heard, and people seemingly gradually forgot Changli Temple's uniqueness. But last year a number of former students from Neipu born in the 1960s, including Tseng Ta-jen, Liu Hsiao-ming, Li An-chi, Huang Tzu-huan and Chang Wei-cheng, assembled to help re-create the former ambience of the academy where culture was once propagated.

"You can often see young students making an appearance in Changli Temple, which is a sort of 'theme temple' revolving around cultural education," explains Liu Hsiao-ming, chief secretary at Pingtung Community College. "Going to the temple to pray during exams is a shared memory among children in the Neipu area. Building on this, we hoped to re-create the temple's role as a center of cultural learning, and give it the functions of a modern educational foundation."

With Tseng Ta-jen's bookstore as headquarters, a group of young people gathered together and, because Han Yu's birthday was just a month away, each person put forth the resources they had at hand, and then combined those resources with those of Changli Temple. For instance, they worked with the community college's renowned experimental drama troupe to launch an open-air drama based on Han Yu's Funeral Oration for the Crocodile. And woodblock artist Huang Tzu-Huan rendered Han Yu's image as a woodblock, and provided it to the public to print their own honor roll lucky charms.

Fresh with their new concept, the next day the youngsters approached the management committee with their idea. Since the costs need not be borne by the temple, the management committee let the young people give it a try. "Rites for Han Yu" consisted of performances at Crocodile Ode Outdoor Theatre, as well as the printing of honor roll lucky charms, an exhibition of bookplates, batik handkerchiefs and a lecture about old photographs. Just the queue of people who wanted to get a honor roll lucky charm extended outside the temple and then some.

This first ever Rites for Han Yu cost less than NT$100,000, but successfully made a name for Changli Temple while also educating people about the special character of this culture-oriented temple.

Study Han Yu on the family plan

After the first Rites for Han Yu, the number of people coming from outside counties and towns markedly increased. Said one deeply moved mother: "We've never had any kind of cultural event here in Neipu before. I never expected to see an event like this right in front of our home."

This year for the second annual Rites for Han Yu, the committee gave an even freer hand to young people to do their thing. For three days running, several different, more refined events introduced Han Yu; at the same time, the collaboration with the Hakka communities in Neipu and the rest of Pingtung County was deepened, so that Han Yu has become a source of cultural pride.

Scene: October 14, 2002. The second annual rites at Changli Temple. First to take place is the Han Yu Literature Seminar. Using Han Yu's In Memory of Shi'er Lang as a point of comparison, Pingtung Community College lecturer Kuo Hui-jui discusses how modern education treats the subject of death. Tseng Hsi-cheng, a lecturer at the Department of Social Studies Education of the Taipei Municipal Teachers College, talks on the special relationship between Han Yu and the Hakka people.

Meanwhile, "Parents and Children: Let's Study Han Yu" brings adults and young children even more fully into the world of Han Yu's writing. "Long, long ago, the dragon was just a normal creature crawling upon the earth. One day he discovered he could blow forth beautiful clouds which brought great pleasure to human beings, whereupon he began to put all his strength into spewing mist which formed into a string of lucky clouds. Finally, the dragon rode his clouds into the sky, becoming a powerful and auspicious magic dragon."

This text is based on Han Yu's Essays. By means of a dragon head and several umbrellas painted with fish scales manipulated by the children, Dai Chen-ni, deputy chairperson at Pingtung Community College, allows them to understand that Han Wen Gong intended for children to experience the idea that they too, through their own efforts, can soar like dragons in the sky.

Fearless Han Wen Gong

The events of the first day mobilize the resources of Pingtung Community College's teachers and staff. Hakka Communal-Building Music Rites, performed that night, and the Celebration of Cultural Sites and Hakka Autumn Songs, activities on the second day, are aided by various Hakka bodies including the Pingtung Plains Culture Association, the Community Development Association of Neitian District, the Hakka Charity, and the Association for the Promotion of Dialects.

"We hope to use Rites for Han Yu to promote unity among different groups of Hakka people," explains Chang Wei-chang, a former local representative to the township council and also sponsor of the first annual rites.

Many arrive in chartered vehicles, including students and teachers from many nearby elementary schools. With a map and five "passes" in their hands, one by one they are introduced to Hsitsu Pavilion, where Hakka burn paper upon which words have been written as an offering to deities; visit Po Kung (the Earth God), whose image is similar in shape to the graves used by the Minnan people of Fujian and Taiwan; stop at the Sacred Tree; and watch screen-making. The last "pass" requires copying a Tang dynasty poem with a calligraphy brush and then reciting it before the image of Han Wen Gong. This form of worship, with its profound meaning, leads many older adults on the side to clap their hands in enthusiasm.

While Han Yu's eventual friendship with the Hakka was due to chance, their veneration of him has left a traceable trail. "Han Wen Gong's spirit and our Hakka spirit are very similar," local senior citizen Liu Jui-an explains. "Han Yu dared to advise against providing a home for the Buddha's relics at a time when the court was mesmerized by Buddhism. His fearlessness in the face of the threat of death is what we Hakka call 'hard-headed.'"

That aside, Han Yu's work as a teacher in Chaozhou, and his emphasis on education, are also similar to Hakka values. "In the past when our ancestors came to Taiwan, they made the land farmable but they also promoted learning. Working the fields when the sun shines and studying when the rain falls-that's Hakka tradition," explains temple management committee secretary Chiu Hung-chun. "Even if our parents had to sell their rice paddies, they would do so to get an education for their children."

Verses roll off the tongue

The third and last day of events-the ninth day of the ninth lunar month-is the anniversary of Han Yu's birth. Early morning, white walls, black tiles. Decorated simply but elegantly, the Changli Temple building, whose architecture is so typical of the Hakka of Neipu, is crowded with incense-burning pilgrims and adoptees.

On the vermilion doors are the words "Gate to Civility" and "Path to Righteousness." At either side of the central courtyard are a whole pig and a whole lamb. When the auspicious moment arrives, a traditional Hakka eight-note suona horn rings out. Cloaked in Tang dynasty ceremonial dress, Deputy County Commissioner Wu Ying-wen and legislator Tsao Chi-hung formally make the three offerings: The flower offering, the fruit offering and the wine offering. Thereafter, the temple management committee members, garbed in long gowns, begin the complicated and solemn rites of worship.

"Disciples are to form into groups, stand at attention and maintain silence, each performing his tasks unceasingly." As the master of ceremonies sings out each step of the rites, the drummers beat three times, the ringers strike their bells nine times, the door-guardians open their doors. . . and just then, the yellow curtain around Han Wen Gong's statue is lifted. With a tome in his left hand, Han Wen Gong formally accepts the good wishes of the public upon his birthday.

The master of ceremonies leads all worshippers out the door where they are ceremonially cleansed with water. With umbrella and fan in hand, the ritual assistant greets the deities, and all the worshippers kneel three times and touch their heads to the floor nine times.

The master of ceremonies kneels and reads the text of worship in praise: "Born after Confucius and Mencius, Han Yu, renowned Confucian scholar of the Tang. . . with his brush he moved the winds and clouds at will, impacting generations to come, and served as a pillar of the dynasty. . . we perform these three offerings, though modest, in the hopes that we and the disciples who follow us shall be protected, culture may flourish and talent be nourished." The entire rites consist of some 12 stages and take more than one hour. No divination is performed, no noisy ritual to win favor from the gods-simply this serious and spare ceremony, which conveys the deep respect in which the Hakka hold Han Wen Gong.

One thousand and one hundred years ago, the exile of a great literary master of the Tang dynasty led to a special relationship with the people of Chaozhou in Guangdong. Even though Han Yu was in Chaozhou only eight months, he earned the love of the common people which has endured for over a millennium, during which incense has been burnt for him and rites conducted unceasingly.

In the main hall, the horizontal inscription "Paragon of Lingnan" hangs high aloft. Young students from Neipu's Futian Elementary School crisply recite Tang poems. The example of Han Wen Gong's spirit has literally come to life among these young children here in Neipu.

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