使節風雲玉冰清

李宗儒談外交二三事
:::

2019 / 12月

文‧李珊瑋 圖‧林格立


將軍之子,李宗儒俠義天成。從事外交工作逾半甲子,歷任五大洲館長,功勳留駐青史。花甲之年榮退,閒雲野鶴,寄情玉石。回首使節生涯,不辱使命,無愧天地。

在每一個職位上都是拚命三郎,李宗儒要求完美的個性,毫無保留的展現在工作歷程中。外放澳大利亞時,第一次擔任館長就一戰成名,大幅增進雙方經貿友誼;研考史冊,向英國據理力爭,終將紅毛城無償收回;破冰談判,促成台韓復航,對旅遊觀光影響層面,至為深遠。


 

旗正飄飄,紅樓回首前塵

艷麗的磚紅小樓,在藍天白雲的映照下,份外搶眼。樓頂的青天白日滿地紅國旗,在風中朗朗飄揚,一如半世紀前的那個早晨,颯颯作響。李宗儒站在綠意環繞的小徑,仰頭凝視堅挺的旗竿,前塵往事的悸動,宛若絲絲飛絮,在眼前縈迴不斷。

「當時我擔任外交部歐洲司科長,收到陳情。」正是青年才俊,力圖施展滿腔抱負的年歲,李宗儒非常重視這件牽涉到外交的輿情反映。位於淡水河出海口,半山腰上的紅毛城,具有重要的戰略地形,素來是兵家駐守重鎮。分立紅毛城入口兩側的九面旗幟,正一一表述更迭的滄桑。

由1628年西班牙在此建置「聖多明哥城」,到1644年荷蘭人在原址附近重建「安東尼堡」,1661年鄭成功進駐,1724年「臺灣府淡水捕盜同知」王汧進行整修,增闢四座外圍城門。1867年開始,英國政府租用紅毛城作為領事館,並在旁邊興建領事官邸。1941年間,因太平洋戰爭,日本查封紅毛城,戰後再度交還英國,直到1972年英國才撤離,交由澳大利亞與美國代為管理。大門深鎖的紅毛城裡,深具歷史意義的文物,無聲地在歲月中蒙塵。無論是站在史學研究角度,或是觀光層面,李宗儒都無法放任紅毛城在國土上禁閉頹圮。

「當時英國的說辭是租地蓋領事館,因此要求我國購買建築物。」自幼深具研究精神,遇事鑽研到底的李宗儒,遍翻清朝檔案,深入研究紅毛城的歷史。居然查到「英國從來沒有付過土地的租金。」獲得這項極為有利的證據,必然要據理與英方力爭。英國自知理虧,1980年6月30日委託國際馳名的大律師、東吳大學校長端木愷交還紅毛城的鑰匙,由外交部歐洲司司長胡世勳率科長及承辦人代表接收。這一天,我國國旗首次在紅毛城升起。「那種收歸國土的感動,到現在仍然很鮮明。」近半個世紀前的堅持與努力,李宗儒為國家贏得一場漂亮的外交勝利。

從無到有,南半球開疆闢土

「我去之前,我國與澳大利亞的關係十分疏離。」1991年第一次外放擔任館長,李宗儒派駐澳大利亞墨爾本,名為「遠東貿易公司」的辦事處,只有他和秘書兩人。當時李宗儒連拜會澳大利亞外交部都不得其門而入。「我深信世間人與人、人與事、人與物,都是緣份的安排。」敏銳的觀察力,是外交官不可或缺的基本能力。李宗儒察覺到,當時正值澳大利亞亟思轉型的契機,開始重視與亞洲國家的連結。

「我覺得自己很幸運,在這個時間點派駐。」憑藉著真誠和勤奮,李宗儒從無到有,一步一腳印和澳大利亞國會逐步建立緊密關係。第二年李宗儒已經可以直接進入澳大利亞外交部,並獲允將辦事處搬遷到首都坎培拉,改名為「台北經濟文化代表處」,同時在各國外交使館匯聚的精華地段購置房舍,立穩腳跟。

因雙方通航,當時經濟部長蕭萬長、內政部長吳伯雄前往訪視,交流密切。澳大利亞國會台澳雙邊小組由零開始,拓展到90名議員的友我力量,陣容堅實。當時美澳是102位,英澳是84位。短短2年間,能與美國數量貼近,並且超越澳大利亞的母國──英國,「在沒有邦交的情況下,這真的很不容易。」毫無政治背景的李宗儒隻身在外,為了能在澳大利亞國會中受到重視,單打獨鬥的瀝瀝心血,有目共睹。

扎根的努力行動,促成當時的立法院長劉松藩、副院長王金平、委員潘維剛前去訪問,並獲國會眾議院議長親切接待。這項突破點,關鍵就在於獲得數量可觀的國會議員支持。這項成果也獲得外交部的重視,1993年李宗儒獲選派往紐約一個月,支援首次參與聯合國專案工作的契機。

除了政治層面往返密切,台商更是興致勃勃,紛紛試探水溫。澳大利亞政府感受到我國的經貿實力,逐步提升派駐我國的外交人員層級,顯示對兩國實質關係的重視。

三年後李宗儒調離澳大利亞時,有35位國會議員在國會餐廳為他辦理歡送會,體現李宗儒不僅贏得外交勝利,更贏得真摯的友誼。

「其實工作上的脈絡是環環相扣的,感謝先前在英國國會工作六年的紮實歷練。」成功不必在我,能夠克盡職守,為國爭光,就是李宗儒心中最大的寬慰。

復航推手,台韓交流熱絡

「韓國是我退休前,最後外派的國家。」因緣巧合,自小夢想報效空軍的李宗儒,再一次與通航搭上線,立下重要功績。務實是李宗儒一貫的作風,「外交工作,要有磨功。」駐韓兩年期間,馬不停蹄地先後走訪包括當時仍是議員的盧武鉉、朴槿惠、鄭東泳、丁世均等177位政要,建置人脈,奠定雙方持續友好合作的基礎。

即使沒有正式邦交,促進雙邊經貿關係,也是外交人員責無旁貸的重要使命。由於1992年台韓斷交後,不僅斷航,2001年時我國對韓貿易逆差更高達34億美元。忠貞為國的李宗儒,豈能坐視這種不利情勢繼續惡化,苦思能在任期內,將經貿關係由逆轉順。於是在赴韓前,先行走訪經濟部、國貿局等部門,取得共識。2001年終於促成外貿協會正式在韓設立「首爾台灣貿易中心」。彷彿有若神助,此後我對韓貿易逆差大幅驟降,至2015年僅剩5億美元。

「我是頂著鋼盔向前衝。」當時為了國格,受命不得主動提及復航,以維尊嚴。但是2001年5月李宗儒抵達韓國後,發現韓航已經發展飛航大陸20餘座城市。而台灣與韓國間,卻必須搭乘香港國泰、泰國等外籍航班來往,長此以往,此消彼長,台韓關係必然日益疏離。本於國家利益為重,無計個人榮辱進退,李宗儒折衝樽俎,巧妙運用媒體發聲,營造台韓復航情勢。2002年12月終於水到渠成,台韓間啟動包機互航,2004年9月雙方進一步簽署雙邊航空協定後,正式復航。

紅毛城導覽人員,正領著一批韓國遊客進入領事官邸參觀。「近些年來,韓國遊客數量非常多。」2003年韓國來台觀光人數不足10萬人, 2018年迅速增長至102萬餘人,15年間成長10倍之多,而今台灣已成為韓國第三大觀光旅遊地。復航的績效,至今仍持續發燒。「就像無償收復紅毛城一樣,這是我工作生涯中,感到最欣慰的事。」

俠客隱退,玉潔冰清

「擔任駐洛杉磯處長期間,一天排16個行程。」鐵打的身體,也耐不住日夜操勞,李宗儒病倒了。「當時肝指數突然升高,醫生都著急了。」一向秉持騎士精神,無私奉獻的李宗儒,順應天命,興起解甲歸田的念頭。「這個馬克杯是我極珍貴的回憶。」來自洛杉磯團隊同仁的心意,杯身「The Best Leader in the World」,正是李宗儒對團隊同心同德最真摯的寫照。

即使是嗜好,李宗儒也從不輕忽。擔任外交部多項運動聯誼社社長,不但建立體制,更要玩得有聲有色。「我和司機、工友大哥們都很麻吉。」一視同仁的親和作風,讓他成為社團人氣王。

「具有歷史意義的文物,對我有致命的吸引力。」一個「銷印戳」,引發李宗儒對外蒙古中國郵政封的興趣。「當時我熬夜揀選,盡己之力,保存中華文物。」笑稱是上帝的安排,李宗儒這項深具特色的歷史性研究,集結成《外蒙古中國郵政史》一書,成為我國郵政史上極為珍貴的典藏。

「你看這塊玉皮,沁潤的多美。」隨身佩帶溫如凝脂的和田玉,在燈光投射下,透出細緻的飛花結晶。「我愛古玉裡,那種刻寫著先人血脈的靈性。」將多年體悟收納在《扳指乾坤》《玉皮至美》二冊研究報告中,供同好參考。一件件蒙塵的玉石,在李宗儒對話般的撫弄珍藏下,重現原始的輝煌。絢麗後的寧靜,光鮮下的執著,「下戲了」,李宗儒輕鬆自在,笑談風生。世事紛擾隨風去,留待春秋之筆,映照無私丹心。

相關文章

近期文章

日本語 EN

外交官としての輝かしい実績

——古玉を愛する李宗儒

文・李珊瑋 写真・林格立 翻訳・山口 雪菜

将軍の家に生まれた李宗儒は、生まれながらにして義侠心が強かった。30年にわたり五大大陸で在外公館の長を務め、外交史に名を連ねてきた。60歳で退官してからは悠々自適の、玉を愛でる日々である。外交官としての生涯を振り返る時、使命を全うし、何の悔いもないと語る。

職務に当たっては常に完璧を求めてきた。オーストラリアでは、初めて代表処の長を務め、経済関係を大きく前進させた。また、歴史を研究し、筋を通してイギリスから紅毛城を無償で取り戻すことに成功した。さらに、韓国との交渉を大きく前進させて航空便の再就航に成功し、観光産業の発展にも大きく貢献した。


赤レンガの紅毛城の歴史

赤レンガの建造物は青い空に美しく映える。屋根の高みには青天白日満地紅の国旗がはためき、それは半世紀前のあの朝を思い出させる。

「当時、外交部(外務省)欧州司の科長だった私はある陳情を受けました」と言う。若く、正義感の強い李宗儒は、外交に関わるこの陳情を重く受け止めた。紅毛城の建つ淡水河の河口に面した丘は、戦略的に極めて重要な位置にあり、歴史上常に要衝とされてきた。紅毛城入り口両側にある九つの旗がその歴史の変遷を物語っている。

1628年、まずスペインがここにセント‧ドミニカ城を建て、1644年にはオランダがその近くにアントニー要塞を設けた。1661年には鄭成功がここを治め、1724年に「台湾府淡水捕盗同知」の王汧が改修して城壁と四つの城門が設けられた。1867年からはイギリスがここを租借して領事館とし、傍らに領事公邸を増設した。1941年には太平洋戦争勃発により日本が紅毛城を接収し、戦後にイギリスに返還された。そして1972年にイギリス領事官は撤退し、オーストラリアとアメリカが管理することとなる。当時、深く閉ざされた紅毛城には、歴史的価値のある多数の文物が塵に埋もれていた。歴史研究の立場からも、観光面からも、紅毛城を租借地のまま荒廃させることはできないと李宗儒は考えたのである。

「当時、イギリスは租借地に建てた領事館であるから、我が国が建造物を買い取るべきだと主張しました」そこで李宗儒は清朝の文書を渉猟し、紅毛城の歴史を研究した。そこで発見したのは「イギリスは一度も租借料を支払っていない」ということだった。この証拠を手にし、イギリスとの交渉に臨んだところ、イギリスは自らに理がないことを知り、1980年6月30日、国際的な著名弁護士で東呉大学学長だった端木愷に紅毛城の鍵を託し、外交部欧州司の胡世勲‧司長が科長と担当者を率いてこれを受領したのである。「その時の、国土を回復したという感動は、今も鮮明に覚えています」と李宗儒は言う。

南半球でゼロから関係を築き上げる

「私が赴任するまで、我が国とオーストラリアの関係は非常に疎遠でした」1991年、李宗儒は初めて館長としてメルボルンに赴任した。「遠東貿易公司」という名称のオフィスで、職員は彼のほかに秘書が2人いるだけだった。当時はオーストラリアの外務省を訪問することさえかなわない状態だった。「私は、この世の人と人、人と事、人と物の関係はすべて縁だと思っています」と言う李宗儒は、外交官としての鋭い観察力から、オーストラリア政府がアジア重視への方向転換を考えていることを察知した。

「そういう時期に赴任したのは幸運なことでした」と言う。そして誠意と勤勉さをもってオーストラリア連邦議会との関係を一歩ずつ築いていった。翌年には同国外務省を直接訪問できるようになり、また事務所を首都キャンベラの各国大使館が集まるエリアに移し、名称も「台北経済文化代表処」へと改めることができた。

当時の蕭万長‧経済相や呉伯雄‧内政相の訪問も実現し、オーストラリア連邦議会内の台豪交流グループも、ゼロからスタートしてメンバー90名の規模まで成長した。当時、同議会における米豪交流グループのメンバーは102名、英豪交流グループは84人だったが、わずか2年の間に台豪交流グループの規模は英豪グループのそれを超えたのである。「外交関係のない状態で、これは大変なことです」と言う通りで、オーストラリア連邦議会との関係をここまで築いた李宗儒の功労は言うまでもない。

こうした努力の末、当時の劉松藩‧立法院長、王金平‧副院長、潘維剛‧立法委員らもオーストラリア連邦議会を訪問し、同下院議長の歓待を受けた。この成果を我が国外交部も重視し、1993年に李宗儒は1ヶ月にわたりニューヨークに派遣され、我が国初の国連ワーキンググループ参加をサポートした。

オーストラリアとの緊密な関係には台湾企業も関心を注ぎ始めた。オーストラリア政府も我が国の経済的実力を認めて両国の関係を重視し始め、在台外交人員のレベルを上げていった。

3年後に李宗儒がオーストラリアを去る時には、同国連邦議会の議員35名が議会内のレストランで送別会を開いてくれたという。外交において大きな実績を上げただけでなく、真の友情をも築いたのである。

韓国は李宗儒が退官前に最後に赴任した国である。子供の頃、空軍のパイロットになるのが夢だった彼は、航空交渉で大きな業績を上げた。韓国での2年間、李は国会議員177名を頻繁に訪ねて人脈を築き、友好的な協力関係の基礎を築いた。

韓国との航空便再就航

韓国と正式な外交関係はないものの、両国の貿易関係の促進は外交官の重要な使命である。1992年の国交断絶以来、両国航空会社の直行便もなくなり、2001年の時点で韓国との貿易赤字は34億米ドルに達していた。状況の悪化を食い止めるため、韓国に赴任する前に李宗儒は経済部などの関係機関と話し合った。そして2001年に対外貿易協会が正式に「ソウル台湾貿易センター」を設立した。これを機に韓国との貿易赤字は大幅に減少し、2015年には5億米ドルまで下がった。

2001年5月に李が韓国に着任した時、大韓航空は中国大陸の20都市に就航していたが、台湾と韓国との直行便はキャセイパシフィック航空やタイ航空など外国の航空会社しかなかった。こうした状況が長期に渡れば、両国の関係は疎遠になっていく。2002年12月、さまざまな条件が整って相互に直行チャーター便が乗り入れ、2004年9月には航空協定が結ばれ、直行便が再就航した。

これにより、紅毛城を訪れる韓国人観光客も増えた。2003年、台湾を訪れる韓国人観光客は10万人に満たなかったが、2018年には102万人を超え、15年で10倍に成長したのである。現在では、台湾は韓国の海外旅行先の第3位になっている。

退官後は古玉を愛でる

「ロサンゼルスで処長を務めていた頃は、一日に16もスケジュールが入っていました」という当時、過労で倒れたことがある。肝臓の数値が悪化していて医師も慌て、李は田舎で隠居暮らしをしようかと考えた。「このマグカップは大切な思い出です」と取り出すのは、ロサンゼルスの同僚たちが送ってくれたもので、「The best leader in the world」と書かれている。自分のチームをいかに大切にしていたかがうかがえる。

李宗儒は趣味も手を抜かない。外交部でスポーツクラブの部長を務めていた時は、さまざまな制度を整えて、自らも思い切り楽しんだ。「運転手や用務員とも仲良くなりました」と言う通り、分け隔てなく付き合う李は人気者だった。

「歴史的意義を持つ文物には、どうしようもなく惹かれます」と言う。ある封筒の消印から、外蒙古中国郵政に興味を持ち、その研究に没頭して『外蒙古中国郵政史』を著した。我が国の郵政史研究における貴重な一冊である。

常に身につけている「和田玉」は繊細な結晶を見せる。「古い玉の中に込められた先人の魂に惹かれます」と言う。長年にわたる玉の研究成果は『扳指乾坤』『玉皮至美』の二冊にまとめ、同好の士の参考に供している。濁った古玉が、李宗儒が語り掛けるうちに原始の輝きを取り戻す。そして輝きを放った後の静けさのように、李宗儒は悠々として穏やかに微笑むのであった。

A Foreign Affair:

The Diplomatic Achievements of Francias Lee

Lee Shan Wei /photos courtesy of Jimmy Lin /tr. by Scott Williams

The son of a general, Francias Lee has an innate sense of justice. He served all over the world with great merit during his 30-plus years as a diplomat. Having retired at the age of 60, his time is now his own, and he looks back at his long career with no regrets.

Lee’s first posting as a mission head was to Australia, where he made a name for himself by greatly improving our economic and trade relationship. Later, his research into historical documents helped the ROC make a strong case for the return of Fort San Domingo without the need to pay compensation. Lee went on to end a stalemate in Taiwan‡Korea aviation negoti­ations, spurring a resumption of direct flights with far-reaching effects on tourism.


A look back at the past

The gorgeous vermilion Fort San Domingo is particularly eye-catching against the blue sky and white clouds. The ROC flag on the roof waves in the wind as it did for the first time one morning 40 years ago.

Lee recalls: “At the time I received the brief, I was a section chief in the Department of European Affairs at the Ministry of Foreign Affairs.” Located partway up a hill at the mouth of the Tamsui River, Fort San Domingo occupies a strategic position, and in former times was always garrisoned with soldiers. The nine flags that now stand at its entrance document its changes of fortune over the years.

The original Fort San Domingo was built by the Spanish in 1628, but was soon destroyed. The Dutch built another fort on the site in 1644, named Fort Antonio. The Dutch fort was occupied by Zheng Chenggong (Koxinga) in 1661. Wang Qian, the Qing-Dynasty governor of Danshui Subprefecture, renovated it and added an outer wall in 1724. The British government began leasing the fort in 1867, using it as a consulate and adding an adjacent ­consular residence. The Japanese seized it in 1941 during the Pacific War, but returned it to the British when the war ended. The British remained there until 1972, when they turned it over to Australia and the US to manage. Historically significant objects had remained sequestered behind its locked gates, quietly collecting dust for decades. The fort’s dilapidated state pained Lee from the standpoints of both historical research and tourism.

Lee explains that when Taiwan was negotiating with Britain for the fort’s return, Britain asked to be reimbursed for the cost of the consular residence it had built on the site. But when he read through the Qing-Dynasty documents covering the history of the fort, he learned that Britain never paid the rent on the land it had ostens­ibly leased. With this valuable information in hand, he had a strong counter­argument to the British request. On June 30, 1980, acting on behalf of Britain, Joseph K. Twanmoh, an internationally renowned lawyer who was then the president of Soochow University, turned the fort’s keys over to a delegation led by Hu Shih-hsun, then the director-general of the Department of European Affairs at MOFA, and the ROC flag was raised over Fort San Domingo for the first time.

Venturing south

“Our relationship with Australia was very distant when I was first posted there.” Lee was assigned to Melbourne for his first stint as a mission head. The ROC mission to Australia, an office then known as the Far East Trading Company, consisted of just Lee and a secretary. Lee soon realized that Australia’s thinking was ready to change, that it was becoming interested in forging ties with Asian nations.

“I think I was very fortunate to be assigned there at that moment.” Lee’s sincerity and diligence enabled him to gradually develop a relationship, building it bit by bit into close ties with Australia’s parliament. In his second year there, he won permission for the mission to relocate to the Australian capital of Canberra, and to change its name to the Taipei Economic and Cultural Office.

The Australia‡Taiwan Parliamentary Group was formed and forged a solid friendship with Taiwan. Over the course of two short years, the group grew to have 90 members, making it larger than the country group for the UK (84 members) and nearly as large as the one for the United States (102 members).

This spurred then Legislative Yuan speaker Liu Song-pan, deputy speaker Wang Jin-pyng, and legislator Tina Pan to visit Australia, where they were received by the speaker of the House of Representatives. MOFA took note of Lee’s achievement, and in 1993 sent him to New York for one month to support Taiwan’s first opportunity to participate in a United Nations working group.

Closer ties to Australia also excited investors, who wanted to know which way the wind was blowing. The Australian government was aware of Taiwan’s economic might, and demonstrated its view of the importance of substantial ties between our two nations by gradually raising the seniority of its diplomatic representative to Taiwan.

When Lee left Australia three years later to take up another post, 35 members of parliament arranged a sendoff for him in one of the parliament’s dining halls.

Warmer Korean relations

“My final overseas posting before I retired was in South Korea.” As a young man, Lee had dreamt of joining the Air Force. He got his chance to contribute to aviation in this posting by helping reestablish South Korea’s air links with Taiwan. He worked tirelessly during his two years in Korea, liaising with 177 legislators to build relationships and establish support for bilateral cooperation.

Even when we lack formal diplomatic relations, diplomatic personnel are duty bound to enhance economic and trade ties. When Korea and Taiwan broke off diplomatic relations in 1992, it not only halted direct flights on national carriers, but also caused Taiwan’s trade deficit with Korea to grow to US$3.4 billion by 2001. This state of affairs finally prompted the Taiwan External Trade Develop­ment Council to establish the Taiwan Trade Center, Seoul. The center has been of great help in reducing the deficit, cutting it to just US$500 million by 2015.

When Lee arrived in Korea in May 2001, he learned that Korean Air was already flying to more than 20 cities in mainland China. Meanwhile, travelers wishing to fly between Taiwan and Korea had to travel on Cathay Pacific or Thai Airways. This state of affairs was causing Taiwan‡​­Korea relations to become ever more distant. Lee used the media to build interest in reestablishing flights. He achieved a measure of success in December 2002, when Taiwan and Korea reopened charter flights, and a more complete success when the two sides inked an agreement formally resuming flights on national carriers in September 2004.

In 2003, fewer than 100,000 Korean tourists visited Taiwan. In 2018, more than 1.02 million visited, an increase of more than ten times over 15 years. In fact, Taiwan is now the third most popular destination for Korean tourists.

A knight leaves the field

“During my previous posting, in Los Angeles, I had 16 meetings a day.” Even Lee’s iron constitution couldn’t hold up under the abuse of that kind of nonstop work, and he fell ill. Bowing to fate, the selfless diplomat began to think about hanging up his spurs. “I still treasure this mug.” A gift from the staff of the Los Angeles office, it reads “The Best Leader in the World.”

Lee takes even his hobbies seriously. As the president of numerous MOFA sports clubs, his goals were not only to put the clubs on a sound organizational footing, but also to make them competitive. The amiable Lee was ­MOFA’s Mr. Popularity. “I got along well with the drivers and janitors, too.”

“Historical objects hold a fatal attraction for me.” When a canceled postage stamp sparked his interest in Chinese postal envelopes from Mongolia, he immersed himself in study and went on to make an important contribution to the field of Chinese postal history with the book Chinese Postal History in Outer Mongolia.

“I also love ancient jades, the kind etched with the spirits of our ancestors.” He poured his years of accumu­lated knowledge into two studies that he shared with other jade aficionados. His playful, conversational presentation makes each piece of jade he discusses sparkle. At peace in the quiet retirement that has followed his magnificent career, Lee enjoys chatting and sharing jokes. The world’s storm clouds blow away on the wind, leaving behind a selfless and loyal servant of the state.

X 使用【台灣光華雜誌】APP!
更快速更方便!