台湾は美食の天国で、様々な国の料理の本場の味を楽しめる。その中でも、酸味、甘味、苦味、辛味と香りを集大成したタイ料理は、美食家には見逃せない独特の味わいである。

母の味を受け継ぐ阿桐シェフ（シェラトン･グランデ台北ホテル）。30年前に台湾に来て、タイ料理ブームに火をつけた。

心に刻む母の味

各国の料理を味わい尽くしたが、夜中に目覚めて思い起すのは母の味である。阿桐シェフが再現したいのは母の味であり、それがまた美食家たちの舌を魅了する。

バンコク生れの阿桐シェフは、幼いころから料理の神秘に惹きこまれていた。珍しくもない野菜や魚に肉などが、母が香料を用い、漬け込み、混ぜ込むと、たちまち夢幻のように新しい一皿となり、食欲をそそる香りが鼻を打つのである。

海軍士官の父には来客が多く、お客様のために母はテーブル一杯に料理を出した。お客様の感嘆の声を聴き、美味しい料理はこれほど喜ばれるのかと、幼いながら楽しかった。

父が家にいれば、母はおつまみに心を砕き、長年海にあり苦労している父を喜ばせた。杯を酌み交わす夫婦の和やかな語らいは、今も阿桐シェフの心に刻まれている。そして、その光景を思い出すたびに料理の種類は千変万化だが、そこにある愛が精髄であり、温かみがなければ、料理は幸福を伝えられないと悟るのである。

二十歳前にその両親は一年ほどの間に相次いで世を去った。両親を失った彼女は年齢以上に早熟となった。当時、まだタイの料理学校Saowapa Collegeに在学していたが、すでに働きながら学ぶ生活を送っていて、その混乱した環境の中でも、静かに忍耐強く訓練を続けていた。

レストランのバックヤードは細かく分業されていて、彼女は調理を専攻していたにもかかわらず、マンダリン･オリエンタルの有名なタイ料理レストランでの実習は、フルーツのカットだった。「毎日、頭も上げずに切り続けました」と言う彼女は、早くから厨房でてきぱきと自分の仕事を終わらせ、それからあたりを見回し手伝った。最初はシェフから邪魔だと叱られたが、暫くするとこの小娘が何でもできることに気づき、18歳で調理を任せてくれ、頭角を現すようになった。

美食家たちが絶賛するハタの素揚げのフルーツ ソースとトムヤムクン。絶妙な味付けに箸が止まらない。

 各地の料理を集大成

タイには直轄市の首都バンコクと76の県があり、北部、東北部、東部、中部と南部の主要エリアに区分される。北部のチェンマイから中部のパタヤとバンコク、南部のプーケットまで、地形や気候から独自の味を発展させてきた。さらにタイの宮廷料理における繊細で精緻な盛付けと装飾が加わり、多彩な変化を見せるタイ料理は、シェフに腕を発揮させる場となる。

強敵に囲まれるバンコクは一級の戦地で、ここで地位を確立するのは容易ではない。正統な調理教育を受けた阿桐シェフは、Suan Sananta Collegeで食品栄養学をさらに2年学び、さらにほかのシェフに虚心に教えを請うた。

「シェフの訓練は厳しいもので、うまくできないと罰がありました」と言うが、厳しい師は高弟を生み出す。一人前のシェフとなった今でも、阿桐シェフは師への尊敬を忘れず、分からないところがあれば尋ねる。こうした態度が認められ、阿桐シェフは台湾の中泰賓館に招かれることとなり、海外でのキャリアが始まった。

「鶏のタイ風スパイス煮」は阿桐シェフが母親から受け継いだ得意料理。鶏は下味をつけてから煮込んであり、香りが深く、味わいは幾重にも広がる。

絶妙な濃淡が味を決める

「台湾に来たときは、スイーツ専門でした」30年前に中泰賓館に来た時、そのスイーツはすでに絶品だった。家族の味に加えて、宮廷の技法を加え、精緻なスィーツは芸術品の域に達し、昔なじみの客は、今もその味を絶賛する。

料理の魅力と言うと、同じ食材を使っても、焼いたり、蒸したり、煮込んだりと、調理法で味が様々に変わることだろう。これに各種調味料が加わり、味わいは無限に広がる。タイ料理がこれほど広く愛されるのは、その多様なソースと南洋の独特な香辛料のお陰である。

「タイ料理の絶妙な点は、一口で多種多様な味を楽しめることで、ソースこそタイ料理の決め手です」と言う通り、阿桐シェフはソースが自慢である。彼女の舌には、母が作っていたソースの味がしみ込んでいると言う。カレーをとっても、レッド、イエロー、グリーンと個性が異なる。「どの料理にも、それぞれ組合せ決まっています」と、あっさりだったり、濃厚だったり、どれも思わず食指が動く。華やかに盛付けられた繊細な料理と、タイ風のインテリアが醸し出す雰囲気とで、五感に気分まで楽しませてくれる。

さらに地元の食材を活用すれば、料理をグレードアップできる。人気の一品、ハタの素揚げのフルーツソースは、毎日仕入れる新鮮なハタに台湾の季節のフルーツを合わせ、鮮やかな色彩と馥郁とした香りが食欲をそそる。ココナッツシュガーとナンプラーのソースが食材を包み込み、酸味と辛味、甘味が口の中で混ざり、食材本来の味を引き出す。人気のトムヤムクンは、濃厚な香りを漂わせるが、口に入れると意外とあっさりで、複雑な味が後を引く。その絶妙な濃淡のハーモニーこそ、タイ料理が人を魅了する精髄である。

タイ北部の料理「チェンマイ･カレーヌードル」。スパイスが効いてスープと麺が一体となり、鶏もも肉とゆで卵が添えられている。

料理に対する包容力

厨房を仕切ってはいるが、阿桐シェフは客席の満足度にいつも気を遣う。「この料理は残されることが多いが、好みに合わないのか、どこか改善する点はないのか」と、しばしばホールに挨拶に出ては、微細な変化に目を配る。謙虚に人の意見を受け入れる態度は、馴染み客からも称賛されている。

すでにトップに君臨する阿桐シェフだが、今でも謙虚に学び、新しい試みを続ける。ほかのレストランに出かけるのが好きと、情報集めに勤しむ阿桐シェフは少女のような笑みを浮かべる。「何口か食べれば、私は同じ味、あるいはもっとおいしい味を出せます」と言う通り、天賦の才と経験から味覚を研ぎ澄ませている。

料理にも流行があり、時に従うしかない。料理には際限がなく、美食家を満足させるには長年の経験と訓練が必要となる。そのため阿桐シェフは、暇さえあればネットで食の情報を漁り、新しい料理を開発する

食の安全が重要視される今日、食材の重要性は高まっている。天然素材にこだわってきたと言う通り、ボボチャチャ（白玉などのココナッツミルクかけ）に入れる多彩なトッピングは、すべて天然素材由来で、人工着色料は使わない。さらにレモングラス、ターメリック、ココナッツ、グリーンペッパー、タイバジル、ライムなどの香辛料は、タイから新鮮なものを輸入している。

「台湾が好きな理由の一つは、オーナーが食材への要求を受け入れてくれるからです」と、各国を回ってから再び台湾に戻ってきたのは、十分なサポートを得られる信頼感からだった。

「マッサマン･ビーフカレー」は牛のバラ肉をじっくり柔らかく煮込んであり、カシューナッツが舌を楽しませてくれる。（シェラトン･グランデ台北ホテル提供）

料理で人々を幸福に

かつて40歳で退職したいと考えていたそうだが、今は50代半ばである。「厨房に入ると、暑いとは言っていられません」営業時間の厨房は戦場のようで、誰もがミスできないと神経を張り詰める。スタッフからママと呼ばれる阿桐シェフだが、シェフとしての責任から、仕事の時は厳しいと丸い目を見開いて言う。「今では後進の訓練が成果を上げていて、一人前を張れるのが何人もいます」と、勿体ぶることのない阿桐シェフは技を伝えようと、忍耐強く後進を指導する。

「時に体力の衰えを感じますが、馴染み客が励ましてくれるので、なかなか辞める気にはなれません」と、顧客からの高い評価が阿桐シェフの心を引き留める。「ある時、昔からのお客様がこの店に来て、かつての中泰賓館での私の料理を懐かしそうにお話になっていました」と話す。その時ちょうど、10年の時を隔てて再び台湾に戻ってきた阿桐シェフがそのテーブルを通りかかった。「お客様と私は互いに見合って、驚きに声も出ませんでした。それから夢から醒めたように、互いに手を取り合って笑いました」と言う。そのお客様の満足そうな笑顔こそ、阿桐シェフが仕事を続けるエネルギーとなっている。

最近では、雨後の筍のようにタイ料理レストランが次々と開店し、競争は激しさを増す。伝統的な宮廷料理から街角の定食屋まで、様々な味を楽しめるが、どうしたら生き残っていけるのだろうか。「歓迎する気持ちで料理を作らないと、温かい幸福を伝えられません」と言う通り、料理のコツは言葉で説明できるものではなく、ただ心を尽くし、感じていくしかない。

阿桐シェフの名言は「一生嫁ぐことがなくとも、一日も欠かさず料理します」である。阿桐シェフのタイ語の名前Rapeepornは暖かい太陽を意味する。どのような運命が待ち受けていようと、彼女は暖かい太陽のように明るく向き合っていくのである。

タイ人としては色白の阿桐シェフは「でも本物のタイ人ですよ」と言う。そのふくよかな姿が快活に台北の街角を歩き、人々の賑わいの中に溶け込んでいくと、台湾でもタイでも区別はないのだと思える。

従業員が「ママ」と呼ぶ阿桐シェフだが、忍耐強く後進を指導する。

明るくほがらかな阿桐シェフ。お客様の満足そうな笑顔が、絶えず精進する原動力になっている。