時間をかけて空間を構築
設計図が決まると、木材を集めた。カナダより米松を一万才(木材の体積の単位、一寸角の角材で長さ十二尺が一才)輸入し、枋寮駅の傍の倉庫に保管した。楊三二は毎日倉庫に通い、本にある通り木材に番号を振っていった。日本では五十音順だが、彼は十二支で方位を示すことにした。家の中心には木材の中心部分を使い、周囲には樹皮に近い部分の木材を用いた。楊三二は「木造家屋は樹木のように、中心から放射状に広がるのです」と語る。木材はそれぞれ正しい場所に置かれなければならない。父の家造りを長年見てきた長女の楊浄淑は「木造の家で難しいのは、最初の木材選びでした」と話す。
木材が乾いたら、ほぞとほぞ穴の加工である。「一番時間がかかるのは、精度の高い継ぎ手、仕口の加工でした」と楊三二は言う。天然素材は気候により膨張、収縮を繰り返すので、ほぞ穴は奥に広がる形で、ほぞを木槌で叩いてほぞ穴に組み込むと、外れることはない。
家を建てるための準備期間は予想外に時間がかかり、この17年余りの期間を振返って、楊浄淑は「倉庫での期間が大変でした」と語る。娘婿の童裕謙は「当時は毎日倉庫でほぞの加工をしていましたが、どこまで進んでいるのか分かりませんでした」と加え、一年ほどかかったのかと聞くと、八年ほどと答えた。童裕謙によると、楊三二は話好きな性格で、友人と倉庫で世間話していた時間は五年くらいだろうと笑う。
家を一軒建てるのにそれほどの時間がかかるのかと、疑問の声が上がることもあった。それでも楊浄淑は「私たちは疑いませんでした。小さい頃に印象深かったのは、部品を取り外して空っぽになったフォルクスワーゲンを組み立てて、走れるようにしたことでした。だから、父にできないことはないと思いましたが、どれだけ時間がかかるのかということだけでした」と話す。
日系の建設会社に勤務したことがある楊三二は「日本の建設会社では、まず計画を立て図面をしっかり整えてから着工します。私には手伝いもいないので、自分一人の時間をかけて、何人分かの時間とするしかありません」と語る。
建築期間が長引いて、夫婦はついに堪えきれずに引越しの吉日も選ばず、まず住むことにした。しかし、木組みだけで壁もない状態で、まずはテント暮らしだったという。順番に工事が進み、電気が通り、去年の夏休みに水道が通り、年末に浴室が完成して、あちこちでお風呂を借りる必要はなくなった。
今では構造はほぼ完成しているが、二階の手すりはほぞがあるだけで組まれていない。これについて「日本では平地で組み立ててから吊り上げ、何人かで一斉にほぞをほぞ穴に打ち込んで設置できますが、私たちにはクレーンなど重機はないので、父は一人でできる工法を独自に考えるしかないのです」と楊浄淑は一人苦労した父への誇りを込めて語る。他からの支援を仰げない中で、工程を一つ一つ考えて進める楊三二に対して、敬意を覚える人は少なくない。