台茶大航海時代

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2016 / 12月

文‧鄧慧純 圖‧林格立 翻譯‧Scott Williams


您或許很難想像,從茶樹上摘取的小小嫩芽,經過加工精製後,能成為風靡世界的飲品。

19世紀末、20世紀初,台灣茶藉由洋行、茶商之手,外銷到全球五大洲,「Formosa Oolong Tea」是台灣最早揚名國際的商標,英國女王曾驚豔台茶的特殊風味而賜名「Oriental Beauty Tea」(東方美人茶),關西的紅茶也曾是日本天皇御用貢品。

 


茶產業是早年台灣外銷創匯的重要產業,帶起台北城發展的榮景,更是台灣產業重心北移的關鍵。大稻埕全盛時期有二百多間茶行,它們見證了台茶的風雲時期,更是台茶大航海時代的推動者。

 

百年茶香大稻埕

位在民生西路上三間毗連、樓高三層的「新芳春行」,現已歇業了。但當年,它曾是台北規模最大的製茶廠之一。創辦人王連河16歲那年隨著父親王芳群從福建來台,採購毛茶精製加工後,外銷到南洋。王家在1918年因家鄉治安等因素移居台北,在大稻埕落地生根,1934年王連河買地自建的新芳春行落成。自此,新芳春就像個中繼站,接待了許多離鄉背井到台灣發展的茶人,來這兒歇個腳、吃頓飯,又各自四散打天下,「以前人多的時候,三天吃一包米(100斤),……王永慶的父親也常在這邊出入賣米。」已八十多歲、新芳春的第三代傳人王國忠憶起當年的往事。

重慶北路巷弄裡的「有記名茶」,創辦人王敬輝來自鐵觀音的故鄉──福建安溪,當地居民世代種茶、製茶,因台灣製茶出口日盛,許多安溪人橫渡黑水溝到台灣討生活,王家就是一例。1890年創立的有記名茶,至今家業已傳到年紀輕輕卻一派沉穩的第五代王聖鈞手上。

「臺灣紅茶株式會社」是「臺灣紅茶股份有限公司」(以下簡稱臺灣紅茶公司)的前身,創於1937年。關西製茶歷史久遠,但苦無自主的外銷通路,茶農利潤受到層層剝削,關西羅氏家族因此共同出資成立公司,整合關西生產的茶葉,並在大稻埕設立營業所,不靠洋行,直接自歐美買家接單出口茶葉。

 

精製茶廠的功夫

茶商收購了毛茶,在外銷前,需再加工精製,步驟包括分級、揀梗、焙火、拼配、風選、裝箱。茶商的功力更從焙火與拼配兩道工序中見真章。

從各產地收購的毛茶,茶師和茶商必須抽樣「試茶」,觀其形、嗅其味、品茶湯,將毛茶分級,以決定購入的價錢。王國忠說新芳春的分級,從高到低分為堆外堆、葫蘆堆、番字堆、天堆。「試茶是一件很慎重的事,品茶桌不是隨便人可以靠近的。」

「揀梗」是淘汰毛茶中的雜物。接續的「焙火」,用意在於減少茶葉的水份,易於保存,同時焙過的茶葉,茶湯入口更具回甘滋味。「焙火」是一門專業,師傅藉由控制火侯、時間,決定茶的口味。

走入新芳春行和有記名茶還保存下來的「焙籠間」,首先入目的是兩兩一列、以紅磚圍成的焙窟,每窟深入地下約六十公分。焙籠則是以竹編製,略有腰身的中空圓柱體,內部中段有篩網,盛裝茶葉平鋪其上,以隔絕火源。

焙茶的流程,要先在焙窟內置入約六十公斤的木炭,為減少木炭間的空隙,需將木炭擊碎成小塊。其上再鋪一層燒過的稻殼,然後點火把稻殼燒成灰燼。此舉類似文火的效果,旨在取其熱度,同時又防止木炭燃燒時產生的煙跟火向上竄升,影響茶的滋味。

接續將茶葉平鋪在焙籠裡,置於焙窟上。為使茶葉平均受熱,需每3個小時翻動、交換焙籠的位置。一次燃燒的木炭量可維持2~3個禮拜之久,這是安溪茶人傳統的烘焙方式,也是決定茶葉口味的重要步驟,所以師傅幾乎都睡在焙籠間旁,24小時照顧。當今台灣大概只剩有記名茶還使用這傳統的方式,焙製店裡的招牌產品──奇種烏龍茶。

「拼配」則是透過茶師的感官經驗和技術,截取各茶葉的特色,拼配出茶行特有的口感。王聖鈞解釋說,因為台灣茶農擁有的茶園面積都不大,茶商的訂單無法由單一茶農供給;再者,茶商藉由烘焙與拼配,調配出屬於自家茶行獨特的口感,形同進行品牌區隔。

「焙火」和「拼配」是茶商管控品質的關鍵,也是茶商專業技術力的展現。從商業的角度看,維持一定產量與品質穩定的供貨是外銷的基礎條件,這也是成就昔日台茶大航海時代的關鍵。

 

大航海時代

18世紀末,烏龍茶外銷多掌控在洋行手中,主要銷往歐美,包種茶則多數由華商主導,銷往南洋。如有記名茶第三代王澄清在台灣精製茶葉,再把茶貨賣到泰國給第二代王孝謹,拓展泰國市場,「等於是我阿公把茶葉賣給他爸爸」。王聖鈞解釋著。當年有記的茶貨約佔泰國市場五成之多,現在到曼谷的唐人街還看得到「有記」的招牌。

新芳春行亦然,二十多歲的王連河負責泰國業務,王芳群因緣際會地拿到一批茶,依他多年的經驗發現這茶品質很好,加工烘焙後,送去給王連河販售,他寫信說:「我做茶以來沒碰過品質這麼好的茶!」王連河於是找了曼谷最大的茶行,談好獨家專賣,台灣的包種茶在泰國就這樣推廣起來。

「臺灣紅茶株式會社」成立之初,羅家還沒有熟悉英文的人,請朋友介紹了一位台大畢業、懂英文的人才,就開始茶葉出口的事業。

梳著油頭、一派優雅、仕紳模樣的羅慶士,是臺灣紅茶公司的董事長,他一邊用中、英、日夾雜著介紹著臺灣紅茶公司的歷史,一邊引我們上到茶廠二樓。首先映入眼簾的是掛滿牆面、數百張的鐵皮麥頭(源自英文shipping mark,指運輸標誌,台灣老一輩人受日語發音影響,跟著使用「麥頭」發音),上面是港口名、茶種名、公司縮寫、茶葉等級之相關資訊。羅慶士解釋道,早年出口的茶箱外頭要標明卸貨港、原產國、重量、品質等資訊,用油墨將出口資訊刷在木箱上,這些鐵皮麥頭是當年臺灣紅茶株式會社外銷全球的鐵證。

「公司成立第一年,就有百萬磅的外銷量。大概在1937—1938年,我們的茶葉已經送到倫敦、鹿特丹、哥本哈根了,牆上有些港口甚至現在都不存在了。」細數著牆上休士頓、大阪、橫濱、波士頓、卡薩布蘭卡、新加坡、哥倫比亞、檳城等港口城市,「像我們這樣一個不算大的小公司,曾經外銷過的港口就有85個。這是我們的公司呦,不是全台灣。」語氣中帶著自豪,羅慶士強調地說。

牆上掛著的「REPUBLIC OF CHINA」、「TAIWAN FREE CHINA」、「中華民國台灣製」三塊鐵皮麥頭,則以另一種方式反映了台灣在國際上的地位。台灣退出聯合國後,與某些非邦交國的交易契約上規定茶箱上不能出現ROC的字眼,但我國政府亦明訂出口品上要標明原產地,所以折衷的方法就噴上「中華民國台灣製」,蒙混看不懂漢字的外國人,羅慶士打趣的說。

 

老茶行‧新發想

然而這樣的國際貿易盛景,已不復存在。國際茶業環境變遷及台灣產業轉型等因素,使台茶外銷失去優勢,1982年政府廢除《製茶業管理規則》,開放小農製茶,嚴重影響茶商在產業鏈中的角色,茶菁供應嚴重不足,台茶風光出口的時代也已回不去了。

1976年,有記名茶率先在台北市濟南路成立內銷門市,由出口轉內銷,為了打響名聲,「父親自己開著改裝過的小貨車,上頭載著茶葉,到菜市場推銷,類似現在的行動咖啡車。」王聖鈞回憶著。當時剛好趕上了台灣經濟好轉的年代,茶逐漸成為日常生活中的飲品,也讓有記名茶站穩腳步。2005年,茶廠大翻修,昔日一樓的倉庫空間,曾是王聖鈞小時候的遊樂場,變身為融合古味與新意的門市區,明亮又富現代感;後方的製茶空間仍保持原有的古意,不時會舉行導覽,讓大眾了解茶的製程;翻修了二樓揀茶區為「清源堂」,週末定期作為南管表演空間,讓品茗與藝術相呼應。

關西的臺灣紅茶公司,現在卻生產綠茶,讓人好奇其中究竟?1970年代,羅慶士發現自製紅茶競爭力不敵國外大廠,改引進日本煎茶技術與設備,外銷日本。除了製茶,羅慶士還獨家研製「蒸菁綠茶粉」,將綠茶蒸熟、烘乾、搗碎,茶粉融入水中直接飲用,綠茶中富含的兒茶素抗氧化作用很強,開拓出茶品另類的保健路線。

老茶廠空間則因921地震時支架傾斜及道路拓寬等因素,展開局部整建,部分空間轉型為「臺紅茶業文化館」,收藏了80年來珍貴的歷史片段。羅慶士如數家珍的一張張解說老照片的由來,關西紅茶曾獲選全島名物名產、曾獻給日本皇室飲用的報導、獲總督府頒發特等賞、一張張與歐美買家簽定的信用狀,穿梭在文化館中,猶如走進台茶的時光隧道。

1934年落成的新芳春行,躲過了戰火的侵襲,卻難逃台茶式微的現實,2004年茶行結束營業,2009年被指定為台北市市定古蹟,台北市政府以容積移轉的方式保留了茶行的主建築,並結合民間建設公司展開古蹟修復工程。

歷經4年,新芳春行重新成為民生西路上那個風華絕代、讓人頻頻顧盼的焦點。台北市政府於原址一樓策展「新芳春行特展──重回大稻埕老茶行的璀燦榮光」,讓我們得以再次推開以「『芳』尋顧渚」、「『春』採蒙山」為藏頭對聯的黑色門板,一窺新芳春行的風華絕代,見證大稻埕茶產業昔日繁盛一時的榮景。

約訪王國忠聊聊新芳春行的故事,採訪當天,他先到三樓公媽廳,為前些日子迎回的王氏祖先牌位上香。這或許是他數年來例行的公事,但地點不同了,王氏祖先被迎回當初的地方,繼續看顧王家的子孫。一如新芳春行的歷史被留住了,我們得以繼續記憶著台茶的輝煌。

台灣茶葉從1970年代到達出口的高峰期,到近年需自外國進口3萬噸茶的現況,茶園面積銳減,台茶產業式微;但幸運地,還僅存的數間老茶行仍堅持留住時間,訴說著台茶遠颺的故事。下回再飲一杯茶,別只品它的馨香,飲它的回甘,而忘了回想這一段台茶風雲的大航海歷史。

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台湾茶の大航海時代

文・鄧慧純 写真・林格立 翻訳・松本 幸子

茶の木に芽生えた小さな若葉が、やがて摘み取られて加工され、世界中で愛される飲み物に変身する。

19世紀末から20世紀初頭にかけて台湾の茶は世界五大陸へと売られていった。「フォルモサ・ウーロン・ティー」は最も早くに名を挙げた国際ブランドとなり、その中の一つは独特の風味で英国女王から「オリエンタル・ビューティー・ティー(東方美人茶)」の名を与えられる。新竹関西の紅茶も、かつて日本の皇室御用達品として献上されていた。


その昔、台湾の茶業は外貨を稼ぐ重要な産業であり、台湾の産業の中心が北部に移り、台北が発展を遂げるきっかけをも作った。台北の大稲رL地区には、全盛期には200を超える茶の問屋があり、台湾茶の大航海時代を支えていた。

百年の茶の香り

民生西路にある、3軒連なった店構えの「新芳春行」は、今はもう営業していないが、当時は台北で最大規模の製茶業者だった。創業者の王連河は大陸の福建出身、16歳の時に父の王芳群と台湾に来て毛茶(荒茶)を買い付け、それを加工して東南アジアへと輸出していた。1918年に故郷の治安が悪くなったことから台北の大稲埕に移り住み、1934年には王連河が土地を買って「新芳春行」を開いた。この時より新芳春行には、新天地を求めて台湾へとやってくる人が次々と訪れるようになった。ここでひとまず腰を下ろし、食事してから各地へ散って行くのだ。「人の多い時は、3日で100キロほどの米がなくなりましたよ。王永慶(台湾プラスチックの創業者)の父親もこの辺りに来て米を売っていました」と当時を思い出すのは、すでに80歳を超えた、新芳春の3代目、王国忠だ。

重慶北路の路地にある「有記名茶」の創業者、王敬輝は鉄観音茶の故郷である福建安渓から来た。茶作りを長く営んできた安渓の人々は、台湾の茶葉輸出が盛んになってきたので、海を越えて台湾にやってくるようになった。王家もそんな中の一家族だった。1890年創業の有記名茶は現在、若いながらも落ち着いた風格のある五代目、王聖鈞の代になっている。

1937年創業の「台湾紅茶株式会社」は、現在の「台湾紅茶股份有限公司(以下「台湾紅茶公司」)」の前身だ。新竹関西では古くから茶が作られてきたが、自分たちでは輸出する手段を持たなかったため、農家の得る利潤は薄かった。だが、地元の羅一族が出資しして会社を設立し、大稲埕営業所を作った。こうして外国商人の手を経ることなく、関西で採れた茶葉をまとめ、直接欧米へと輸出するようになったのである。

製茶の技術

茶商人が買い付けた毛茶は、輸出される前に加工される。加工の工程は、等級分け、茎取り、焙煎、ブレンド、風選、箱詰めの順で行われるが、焙煎とブレンドが腕の見せ所となる。

最初の等級分けとは、商人や「茶師」が茶葉の形や香り、味などを見て仕分けし、価格を決める。王国忠によれば、新芳春行では高い葉から順に「堆外」「葫蘆」「番字」「天」と呼んだ。「大事な作業なので、等級分けのテーブルには、ほかの人間は近寄ってはいけないほどでした」

茎取りは毛茶に混じる異物を取り除く作業だ。次の焙煎は、茶葉に含まれる水分を減らすためで、そうすることで保存が効くようになり、また味も芳醇さを増す。ただ、火加減や時間が味を左右するので、焙煎は職人の腕の見せ所となる。

新芳春行と有記名茶には昔ながらの焙煎室が残されており、室内には赤レンガで組まれた炉がずらりと並ぶ。炉は約60センチの深さの穴状になっており、そこに籠をはめ込んで焙煎する。茶葉は籠の中ほどにあるザルの上に広げるので火とは距離が保たれる。

焙煎の方法は、まず炉の底に約60キロの木炭を敷き、隙間ができないよう木炭を小さく砕く。その上に焼いた籾殻を敷きつめ、火をつけて籾殻を焼き尽くして灰にする。これは、温度を保つためだけでなく、茶の味に影響する煙や炎を出にくくする効果がある。

その後、茶葉を入れた籠を炉に載せる。茶葉がまんべんなく熱せられるように、3時間ごとに揺すって、籠の位置も動かす。これは大陸の安渓で行われてきた伝統の焙煎方法で、茶の味を左右する重要な工程となる。木炭は火をつけてから23週間もつので、その間、職人は炉の傍らに寝泊まりし、24時間炉の番をする。おそらく台湾で今もこのやり方を守っているのは有記名茶だけであろう。こうして生まれるのが同店の「奇種烏龍茶」なのである。

次のブレンドの工程は、経験に基づいた茶師の感覚と技術によって茶葉それぞれの特色をつかみ、組合せでその店独特の味を生み出す。王聖鈞はこう説明する。台湾の茶農家は小規模なところが多く、一つの茶畑だけで注文を満たすのは難しいため、何種かを混ぜることになる。それに、焙煎とブレンドによって独自の味を出すことで、他店と差をつけることもできる。

つまり焙煎とブレンドは、茶の質のかなめであり、技術の見せどころでもある。商業的にも安定した量と質の確保は輸出の基本条件であり、それが台湾茶の大航海時代を支えたのだ。

大航海時代

18世紀末、烏龍茶の輸出は多くが外国貿易商の手に握られ、主に欧米へと売られた。一方、包種茶(発酵度の低い烏龍茶)は多くが華人によって東南アジアへと売られた。有記名茶の三代目の王澄清は台湾で茶葉を加工し、それをタイにいる二代目の王孝謹に売ることでタイ市場を拡大した。「私の祖父は、自分の父親に茶葉を売っていたのです」と王聖鈞は言う。当時、有記の茶葉はタイ市場の5割を占めるほどで、今でもバンコクのチャイナタウンに行けば「有記」の看板が目に入る。

新芳春行にも同様の話がある。創業者の王連河がまだ20歳代だった頃、父の王芳群がふとしたことから上質の茶を手に入れたので、タイ方面の業務を担当していた王連河に送った。手紙には「これまでの茶人生でこれほど良い茶に出会ったことがない」と書いてあった。そこで王連河はバンコク最大の茶問屋と独占契約を結んだ。こうして台湾の包種茶がタイで広まったのである。

「台湾紅茶株式会社」の場合、創業当初は羅家に英語のできる人材がなかったため、台湾大学卒業の、英語のできる人を知り合いから紹介してもらい、茶葉の輸出を開始した。

頭髪をポマードで固め、紳士然とした羅慶士は台湾紅茶公司の董事長だ。中国語、英語、日本語を交えて自社の歴史を説明しながら、社の2階へと案内してくれた。まず目に入ってきたのは壁に何百枚と貼られたプレートだ。地名や茶種名、社名の略語などが刻まれている。輸出する茶箱には、仕向港や原産国、重量、品質などを明記しなければならず、このプレートはそれを記すために使われた。台湾紅茶株式会社が世界中へ輸出していた動かぬ証拠だと、羅慶士は語る。

「会社設立の年に輸出量は百万ポンドに及び、19371938年にはすでにロンドン、ロッテルダム、コペンハーゲンに輸出していました。壁の荷印にある港の中にはもう存在していない所もあります」ヒューストン、大阪、横浜、ボストン、カサブランカ、シンガポール、コロンビア、ペナンと読み上げながら、「うちのように、決して大きいとは言えない会社が、かつては世界の85の港に輸出していたのです。うちの会社だけでですよ」と、誇らしげに羅慶士は語る。

ほかに「REPUBLIC OF CHINA」「TAIWAN FREE CHINA」「中華民国台湾製」というプレートもあり、台湾の国際社会での地位を物語る。台湾が国連を脱退して以後、国交のない国との交易では、茶箱にROCの文字を刻むことができず、それでも外国人はわからないだろうと「中華民国台湾製」といった漢字が使われたこともあった、と羅慶士は笑いながら説明する。

老舗の新たな発想

だが、このような盛況はもはやない。世界の茶産業及び台湾の産業構造の変化などによって台湾茶の輸出は衰退し始める。1982年には「製茶業管理規則」が廃止され、小規模農家も製茶ができるようになると、それまで製茶業者の果たしていた役割も大きく損なわれ、茶葉の供給が激減してしまった。

1976年、有記名茶は他に先駆けて台北市済南路に国内市場のための販売店を開いた。宣伝のため、「父は茶の販売用に軽トラを改造し、市場に行って売っていました。今で言う移動式カフェのようなものです」と王聖鈞は当時を振り返る。おりしも台湾は高度経済成長の頃で、日常生活で茶を楽しむ人も増え初め、有記名茶の商売も安定していった。2005年には製茶場を大改修、王聖鈞の幼い頃の遊び場だった1階倉庫を、レトロなムードの漂う明るくおしゃれな販売スペースに変えた。奥の製茶スペースは昔ながらの様子を残し、製茶工程の見学もできるようにした。2階の作業スペースも改造して「清源堂」と名付け、週末には中国古典音楽の演奏会を催すなど、茶とアートの結び付けも試みている。

一方、新竹関西の台湾紅茶公司が今では緑茶を作っているのはどういうわけだろう。羅慶士は、紅茶では海外の大企業に太刀打ちできないので、日本から煎茶製造の技術と設備を導入し、日本へ輸出することにしたのだという。そればかりか羅慶士は「蒸青緑茶粉」も生み出した。緑茶を蒸してから乾燥させ粉にしたものだ。お湯で溶かして飲めば抗酸化作用のあるカテキンが多く摂取できるなど、ヘルシー路線の開拓となった。

製茶所の古い建物は、1999年の台湾大地震で柱などが傾き、また道路拡幅なども行われたこともあって、建物の一部を再建して「台紅茶業文化館」を作り、80年にわたる貴重な写真などを展示した。羅慶士は古い写真を一枚一枚丁寧に説明してくれた。関西紅茶が全島名産に選ばれた写真、日本の皇室に献上された記事、総督府から受賞した特等賞、欧米の取引先からの信用状など、台湾茶の歴史を回顧できる。

1934年建設の新芳春行の建物は、戦火は逃れたとはいえ、茶産業衰退の現実からは逃れられず2004年に店をたたんだが、その建物は2009年に台北市文化財に指定された。台北市は、建築物保存のために容積率を移転する形で、建物の主要部分を残し、民間の建設会社と協力して建物の修復工事を行った。

4年後、新芳春行は再び民生西路に堂々たる姿を見せ、台北市主催で1階において「新芳春行特別展——大稲埕製茶問屋の輝きを再び」を催した。「『芳』尋顧渚」「『春』採蒙山」という対聨の貼られた扉を押して中に入ると、新芳春行の全盛期、大稲埕茶業の華やかなりし時代の光景をうかがい知ることができる。

王国忠へのインタビュー当日、彼はまず3階に上がって祖先の位牌に線香を上げた。工事が終わり、再び元の場所に戻ってきたご先祖様は、今後も子孫を見守り続けてくれるに違いない。

台湾の茶葉は1970年代に輸出のピークを迎えたが、茶畑の面積も激減し、近年は3トンの茶葉を海外からの輸入に頼る時代になった。だが幸い、いくつかの店が今もなお台湾茶の物語を語り続ける。次に茶を飲む際には、その味や香りだけでなく、かつての大航海時代にも思いを馳せたいものである。      

The Golden Age of Taiwanese Tea Exports

Cathy Teng /photos courtesy of Jimmy Lin /tr. by Scott Williams

Taiwanese tea enjoyed a star turn in the late 19th and early 20th centuries with domestic tea merchants and foreign traders exporting it around the globe. “Formosa Oo­long Tea” was the first of Taiwan’s teas to claim international recognition, but others soon followed. Britain’s Queen Victoria was so taken with the unique flavor of a particular Taiwanese oo­long tea that she named it “Oriental Beauty.” Nearer to home, for a time black tea grown in ­Guanxi Township was selected for the use of the Japanese imperial household.

 


Taiwan’s tea industry was one of the island’s early export sectors and an important source of foreign exchange earnings. It helped Tai­pei flourish, and was integral to the northward migration of Taiwanese business. The more than 200 tea merchants based in Tai­pei’s Da­dao­cheng area during the industry’s most prosperous period were a potent force driving Taiwan’s booming tea exports.

Dadaocheng’s century of tea

Though no longer in business, the Sin Hong ­Choon Trade Company was once one of Tai­pei’s largest tea merchants and occupied three adjacent three-story buildings along Tai­pei’s Min­sheng West Road. Its founder, Wang ­Lianhe, immigrated to Taiwan from Fu­jian Province with his father Wang Fang­qun at the age of 16. Wang and his father bought and processed raw tea leaves before reselling them to Southeast Asia. The Wang family bought land and built Sin Hong ­Choon’s facilities in 1934. Those facilities became a waystation for tea-industry workers and entrepreneurs who had just immigrated to Taiwan to make their fortunes, a place they could enjoy a meal and a break before leaping back into the fray. “In its heyday, the company would go through a sack of rice [about 60 kg] ­every three days.... [Formosa Plastics founder] Wang Yung-ching’s father often used to come by to sell us rice,” recalls Wang ­Lianhe’s son Wang Guo­zhong, who is now in his eighties.

Wang Tea founder Wang Jing­hui was also Fujianese. One of many natives of Anxi, the home of tie­guan­yin tea, to relocate to Taiwan during Taiwanese tea’s export heyday, he opened Wang Tea in Da­dao­cheng in 1890. Now run by his fifth-generation descendant, Jason Wang, Wang Tea is still in business today.

The Luo family pooled its resources to found the “Formosa Black Tea Company” in 1937, to address a problem particular to Hsin­chu’s ­Guanxi Township. The township had a long history of making tea, but its farmers struggled to profit from their labors because the area lacked its own export channels. The Formosa Black Tea Company integrated ­Guanxi’s tea-leaf production, then arranged to export leaves directly to buyers in the US and Europe.

Producing fine teas

In the old days, tea merchants purchased raw tea leaves, then processed them prior to export. This processing involved a number of steps, from grading, stemming, and roasting, to blending, winnowing, and packaging.

Tea experts and merchants sampled and tasted the tea leaves purchased from each growing area, then graded them based on their shape, scent, and flavor. Wang Guo­zhong says: “The evaluation process was taken very seriously. Only a few people were allowed near the tasting table.”

The next step was “stemming,” which involved removing stems and other unwanted debris from the raw leaves. After that came “roasting,” which reduced the water content, aided preservation, and created a sweeter-­tasting­ beverage when the leaves were ultimately brewed. It was a fine art, in which a master roaster’s control over the time and temperature of the roast was critical to the tea’s flavor. The old roasting rooms used by Sin Hong ­Choon and Wang Tea still exist, packed with double rows of roasting ovens—depressions set 60 centimeters deep in brick. The roasting bins were woven from bamboo. Roughly cylindrical in shape, they also had a slight waist in the middle. Workers packed tea leaves on top of a filter seated inside the bins to keep the leaves from direct contact with the heat source.

Anxi tea makers began their traditional roasting process by packing their ovens with roughly 60 kilograms of charcoal, which was broken into small chunks to minimize the space between pieces. They then placed a layer of previously cooked rice husks on top of the charcoal, and set the charcoal alight. The husks and charcoal were burned down to ash, which helped moderate the temperature of the roast, and then the tea leaves were packed into the bins, placed on top of the ash, and turned every three hours to ensure that they cooked evenly. This roasting process was integral to the development of the tea’s flavor.

During “blending,” master tea makers applied their skills and senses to eliminating the peculiarities of individual batches of tea leaves, mixing them to match the tea merchant’s own flavor profiles. Jason Wang says this was necessary because Taiwanese tea growers had small plantations, and merchants were unable to source their leaves from a single grower. Merchants also used the roasting and blending processes to create their own signature flavors and differentiate their products from those of other merchants.

Tea exporters had to be able to produce reliable quantities at a given quality, and the blending and roasting processes were at the heart of their quality control efforts. Their ability to produce tea of consistent quality helped usher in a golden age of Taiwanese tea exports.

A golden age

In the late 18th century, mainland Chinese merchants dominated the Southeast-Asian export market for pao­chong tea. In an effort to claim some of that market for his company, Jason Wang’s grandfather Wang Cheng­qing, the third-generation head of Wang Tea, processed tea leaves in Taiwan, then sold them to his own father, Wang Xiao­jin, in Thailand, where Xiao­jin was attempting to develop the local market.

Sin Hong ­Choon utilized a similar model, with Wang ­Lianhe handling the family’s business in Thailand when he was in his 20s. When his father, Wang Fang­qun, came across a particularly good batch of tea, he roasted it and sent it to ­Lianhe to sell. The tea was of such good quality that ­Lianhe was able to negotiate an exclusive deal with Thailand’s largest tea merchant, and begin the spread of Taiwanese pao­chong tea through Thailand.

Luo ­Ching-shih, the elegant and aristocratic-looking managing director of the Formosa Black Tea Company, leads us to the second floor of the company’s production facility. Among the first things we see there are hundreds of metal stencils covering one wall. Luo explains that these are the stencils with which the company printed export information onto the sides of the wooden crates in which it shipped its tea.

“We may be a small company, but we’ve exported to 85 ports. And that’s just our company, not all of Taiwan’s tea merchants,” says Luo with a hint of pride in his voice.

Three of the stencils on the wall highlight the changes to Taiwan’s international status over the years: “Republic of China,” “Taiwan Free China,” and, in Chinese, “Made in Taiwan, ROC.” After Taiwan withdrew from the United Nations, the company could no longer print “ROC” on exports destined for nations with which Taiwan did not have formal diplomatic relations. But government regulations stated that export products had to be clearly marked with the location at which they were produced. Luo says that the company used a workaround: meeting the ROC government’s requirement in Chinese, which officials in the destination ports were unable to read.

New ideas

But the heyday of the international tea trade eventually came to an end. Changes to the business climate and to Taiwan’s own tea industry, together with the government’s 1982 withdrawal of its regulations governing tea manufacturers, led to small farmers processing their tea leaves themselves. This had the dual effect of making it much harder for tea merchants to obtain raw tea and removing them from their central position in the industry. When the tea merchants went into decline, the golden age of Taiwanese tea ended.

Wang Tea saw the writing on the wall. It opened its first retail outlet on Taipei’s Jinan Road in 1976 in an effort to raise its profile and begin a transition from exports to domestic sales. “My father personally drove a small delivery van to markets to sell our tea. He ran it something like a modern-day coffee truck,” says Jason Wang. Wang Tea’s efforts happened to coincide with the rise of Taiwan’s economy and tea’s emergence as an everyday beverage, enabling the company to establish a solid footing in the new market.

The Formosa Black Tea Company responded to the changes differently. Recognizing that the company’s black tea production was no longer competitive with that of major international manufacturers, Luo shifted its focus to Japan in the 1970s. He imported Japanese sen­cha processing techniques and equipment, and began selling tea there. Luo also developed his own process for making green tea powder: steaming the tea flushes, baking them dry, then crushing them into a powder that is mixed with water and drunk. The tea contains catechin, a powerful antioxidant, and is marketed as a health drink.

Formosa Black Tea recently rebuilt its old factory to repair damage suffered in the Jiji Earthquake of 1999 and to get out of the way of a road widening project. It also took advantage of the reconstruction to convert some of its floor space into the Formosa Tea Industry and Culture Gallery and house precious portions of the factory’s 80-year history there.

Sin Hong ­Choon was less fortunate than either Wang Tea or Formosa Black Tea. Although the company avoided physical damage during World War II, it couldn’t adapt to the decline in Taiwan’s tea industry and closed in 2004.

After designating Sin Hong ­Choon’s facilities a historic site in 2009, the Tai­pei City Government used a transfer of development rights to preserve its main building, and hired a construction company to restore it.

Four years of renovation work transformed the Sin Hong ­Choon building back into the gorgeous and frequently visited hotspot it had once been. The city government commemorated its reopening with a special Sin Hong ­Choon exhibition on the first floor that recaptured Da­dao­cheng’s glory days and enabled visitors to experience the old company’s magnificence for themselves.

The Wang family ancestral shrine was moved back into the building just a few days before we met with Wang Guo­zhong to talk about Sin Hong ­Choon. In fact, he had to first run up to the shrine on the third floor to light some incense in front of the ancestral tablets before we spoke. He explained that he had been doing this routinely for years in a different location, but was pleased to see the tablets returned to the site of the family business because now his ancestors can continue protecting their descendants.

Just as Sin Hong ­Choon’s history has been preserved, we too can continue to pass along the wonders of Taiwanese tea. For all that the heyday of Taiwanese tea exports has ended and we now import roughly 30,000 tons of tea per year, we are fortunate to still have with us many old tea merchants who remember and are willing to share the story of how things used to be. The next time you enjoy a cup of tea, savor the taste, but also take a moment to reflect on the glory days of yore.    

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