映画祭開催中のカンヌの大通りで、ほんのわずかな距離を歩くのに、焦雄屏さんの場合は一時間もかかる。足を止めて彼女と挨拶を交わす人々はいずれも、サンフランシスコやロッテルダムといった国際映画祭関係者で、しかも大物ばかりだ。「彼らの挨拶の態度から、この10年間の世界での彼女の活躍ぶりがうかがえます」と言うのは、カンヌ映画祭で焦さんの人脈を目の当たりにした映画評論家、王志成さんだ。
「連合報」の麥若愚記者によれば、第51回ベルリン映画祭は、まるで中国語映画のために催されたようだった。舞台に上がった王小帥、李浜、崔林、李心潔、張震(林正盛監督の代理受賞)の受賞者5人が、口をそろえて感謝すべき人の名に挙げたのが、焦さんと、共同プロデューサーである徐小明さんの二人だった。同一人物の名が5回も挙がる光景は珍しい。
「年がら年中映画祭を駆けずり回って、彼らのルールに詳しくなりました。プロモートで強調すべき点がわかるようになったのです」と、映画の大型ポスターが四方に貼られた事務所で焦さんは言った。『ビートルナット・ビューティ』のプロモート資料にはまず、檳榔とは何か、それが台湾労働者層の嗜好品であることについて説明を入れた。また、北京電影学院卒業の若手監督、王小帥の『北京バイシクル』では、開放前後の中国において自転車が象徴する意味について説明した。外国の観客により興味を抱いてもらい、作品を深く味わってもらうためだ。
ベルリン行きの前、焦さんは「必ず受賞する」と自信満々で、マスコミにもそうもらしていた。「映画祭というのは小さな家族のようなもので、今回も、中国、スペイン、日本の審査員はみな長年の付き合いです。会場で私を避ける人がいないかチェックし、強敵がいないか聞いてみれば、それが確かな手応えになります」と彼女は言う。しかも今回は、同じ映画会社から2作品がノミネートされ、受賞した。
『ビートルナット〜』と『北京バイシクル』は、焦さんの企画による「三都物語」シリーズの作品で、台湾、香港、中国大陸の監督を集めて作られた。予算総額は1億2000万台湾ドルを超えている。資金は、ヨーロッパでの配給権を先に売ることで得た。フランスの大手配給会社ピラミッド・プロダクションが買ってくれたのだ。同社はかつて、華人監督であるウェイン・ワンの『スモーク』や、ロシア映画の『太陽に灼かれて』などを配給している。
フランス資本が得られたことについて焦さんは「世界で最も中国語映画の価値を認めてくれているのがフランスなのです」と説明する。侯孝賢(ホウ・シャオシエン)の『フラワーズ・オブ・シャンハイ』はパリで数10万人の観客を集め、楊徳昌(エドワード・ヤン)の『ヤンヤン/夏の想い出』は35万人(チケット1枚200台湾ドルとすれば合計7000万台湾ドル)、王家衛(ウォン・カーウェイ)の『花様年華』は60万人、そして『グリーン・デスティニー』は160万人に上っている。数カ国合作はすでにヨーロッパでは珍しくなく、クレジット・タイトルに各国映画会社の名前がつらなるのが常だ。
「三都物語」は、世紀の変わり目に当たり、新世代による新たなコンセプトを打ち出そうという意図もある。
「台湾映画は、マーケティング、資金集め、撮影方法などあらゆる面で中国語圏全体に目を向けないと生き残れません」と焦さんは言う。「台湾は資本のグローバル化が歩み、中国大陸も資本主義化し、そして香港は中国に返還されました。この100年間の激変を映画に反映させるべきです。それで台北、北京、香港という三都を選び、21世紀における中国語圏の新たな挑戦を描いてみることにしました」というのだ。
また、作品作りにも新たな感性を吹き込もうと、「三都物語」には新世代の監督たちが集められた。中国大陸からは2名(王小帥、賈樟柯)、香港からは1名(余力為)、台湾からは3名(林正盛、易智言、徐小明)が集い、若者たちの物語を描く。
映画一筋の20数年間、焦さんは様々に肩書きを変えながら映画界に深く根をおろしてきた。最初の名声は筆一本で築き上げた。台湾ニューウェイブ時代、最も影響力のある映画評論家の一人として名を馳せたのである。
1953年生まれの焦さんは、政治大学でジャーナリズムを専攻、卒業後アメリカ留学してやはりジャーナリズムを1学期学んだ後、興味が持てなくなり、映画の分野へ転向した。博士課程にまで進んだが、学業半ばで本国のマスメディアに呼び戻される。1981年に帰国し、台湾映画史上の大きなうねりに身を投じることになった。
焦さんは当時、連合報と中国時報で映画欄を担当し、黄建業さんや陳国富さんといった若手評論家を仲間に呼んで、手厳しい評論を展開した。が、その筆の苛酷さに、映画業界と対立することになった。彼女が映画を批判すれば、相手側も彼女の評論を「主観的で感情的過ぎる」「いたわりのない苛酷さ」「西洋崇拝だ。台湾人の情を知らない」「理論に走って、大衆から離脱している」などと批判した。
評価は二分したが、焦さんは一躍、最も重視される映画評論家となった。
かつて国家映画資料館館長を務め、やはり映画評論界の重鎮である黄建業さんによれば、当時の台湾映画界は後継者が育たず、作品といえば、しいたげられた女性が恨みをはらすといったものや、社会の底辺を描いたものが多く、結局はセックスとバイオレンスの世界だった。「学術的に映画を修めた焦さんの批評は、ストレートで容赦なく、それまで台湾でこれほど鋭い批評を見たことがありませんでした。しかも評論家を6人も集めて力を合わせたわけですから、我々の評論はたちまち信用を得ました。我々が推薦する映画を読者が必ず見に行くというわけではありませんが、我々が酷評した映画は、読者は見ようとはしませんでした」と黄さんは笑いながら回想する。その後、業界から新聞社に対し「新聞の映画広告を差し控える」と圧力がかかり、新聞社は、気に入った映画だけを評論するよう彼らに方針変更を求めてきた。が、それは評論の原則に反すると、彼らの方で執筆を取りやめた。
評論を書くかたわら、焦さんは映画『夫殺し』の撮影や、香港の関錦鵬(スタンリー・クワン)監督の『ロアン・リンユイ/阮玲玉』の脚本作りに加わったり、映画関係の書籍の執筆や翻訳も手がけた。映画祭やコンペティションの開催にも積極的にかかわり、台湾映画を国際映画祭へ出品させるとともに、大陸作品や海外の芸術作品を台湾へと紹介した。
台湾ニューウェイブの作品群が国際的に注目を浴びるようになったきっかけは、フランスの映画監督であるオリヴィエ・アサヤス抜きには語れない。台湾と香港映画界の新たな動きを最も早くに見出したこの人物は、1984年に来台し侯孝賢の『風櫃の少年』を見て、すぐさまナント映画祭に参加するよう働きかけた。その結果、侯孝賢の作品は同映画祭で2年連続グランプリに輝いた。そして、アサヤスに『風櫃の少年』を紹介したのが、焦雄屏さんだったのである。
1987年、イタリアのペサロ映画祭で台湾映画回顧展が催され、監督の侯孝賢、万仁、柯一正、陳坤厚、そしてプロデューサーの徐立功、脚本の朱天文など、ニューウェイブ時代を築いたクリエイターたちが代表団を組んで参加し、そこで多くの映画祭、イベント関係者たちと知り合った。このような経験の積み重ねから焦さんは、作品やクリエイターたちを海外へと引っ張り出し、映画祭関係者によく認識してもらうことの必要性を実感するようになる。
2年後、侯孝賢の『悲情城市』がヴェネチア映画祭でグランプリに輝く。それ以降、フランス、イタリアを皮切りに、ロンドン、ロカルノ、ロッテルダム、ベルリンなどヨーロッパ各地の映画祭に台湾映画は参加し、受賞するようになる。台湾映画に対する外国人の理解度や限界を知り尽くしている焦さんは、多くの映画監督にとって、最も良き通訳者でもあった。そのうえ、プロモーションにおいても適切な企画を打ち出した。例えば、万仁監督の『超級大国民』では、白色テロの時代の説明にポイントを置き、また、呉念真監督の『多桑/父さん』では、台湾の高齢者たちが抱く日本への特殊な思いや、炭坑の人々の生活と時代の変遷を紹介することで、歴史の奔流という視点を浮き上がらせた。
93年、政府新聞局による「イヤー・オブ・シネマ」の企画を焦さんは引き受け、海外に台湾映画を広め、同時に国内映画人を育てるための様々なイベントに取り組んだ。その企画をもとに、翌年には「台湾フィルム・センター」を設立し、各国映画祭に台湾映画を紹介し続けるとともに、プロモートやセールスにも大いに力を貸した。
1990年代になって台湾映画は、国際的には徐々に名を挙げていたものの、年間制作本数はすでに減少していた。映画会社の資金出ししぶり、政府補助金への過度な依存、監督による自己の世界や芸術へのこだわりなどすべてが原因で、悪循環を招いていた。さらに残念なことに、『悲情城市』と『ウェディング・バンケット』を例外とし、それ以外の映画祭受賞作品はすべて台湾ではさっぱり当たらないという有様だった。そのため台湾の映画会社組合は「焦雄屏の評価は独善的だから信用するな」という手紙を、各国映画祭に向けて書いたほどだった。
観客を含む多くの人々が「台湾映画は死んだも同然」と見ていた時、むしろ焦さんは毅然として映画に打ち込み、自己の理想と人脈とを礎に台湾映画の新たな局面を作り出そうとしていた。
1996年、焦さんはアーク・ライト・フィルム社を設立し、映画制作の分野に進出する。97年には、関錦鵬の『私の香港/念你如昔』、許鞍華(アン・ホイ)の『私の香港/去日苦多』、徐小明の『望郷』、そしてオリヴィエ・アサヤスの『侯孝賢』といったドキュメンタリー映画を、スーパー16ミリで4本制作した。
焦さんによれば、制作を手がけるのは、台湾映画界に風穴をあけるためだという。市場が小さく予算も低い台湾映画においては、技術や資金繰りなど、映画会社の取り組まなければならない問題は多い。上述のドキュメンタリーの企画を練る際、徐小明監督といろいろ検討して気づいたのは、ヨーロッパのインディペンデントはみなスーパー16ミリで撮影し、完成後それを拡大することで、コストを半分に押さえているという事実だった。そこで、まず手がけやすいドキュメンタリーから始めることにしたのである。
資金の開拓にも頭をひねった。多くが政府補助金に依存するなか、焦さんは新たな資金源を見つけようとした。中国テレビの鄭淑敏董事長と江奉琪総経理を説得し、国際映画祭での収入と配給権売却で資金回収するということで、同社の協力を得たのである。
「他の人より有利だったのは、いろんなことをやってきたので、人脈が広かったことです。評論、映画祭、配給にまたがって人脈を持つ人間は、映画界でもそう多くはありません」と焦さんは語る。
では創作面では、焦さんは監督たちにどのような提言をするのだろうか。
「プロデューサーとして私は、許鞍華監督と関錦鵬監督に、香港人として個人の目から見た香港返還を撮ってほしいと頼みました。彼らの送ってきた人生は、香港人の人生そのものだからです。すると許鞍華監督は、香港で左翼が爆弾テロを繰り返した時代を撮るのに、スター女優にゴーゴーを踊らせるなど、コミカルなシーンを多く用いました。『ビートルナット・ビューティ』で檳榔売りのギャルたちを取り上げたのも、もとは彼女の発想で、林監督やスタッフと議論を重ね、徐々にできあがったのです」と焦さんは言う。
台湾映画界は優秀な監督に恵まれているという声があるが、焦さんは首を横に振る。国際映画祭で彼女が常に経験するのが、多くの賛辞を得た台湾映画が一向に売れないという現実だからだ。映画会社やエージェントからは「台湾映画が決まってこんなに暗い内容なら、次はもう見たくない」という声が出る。国際的な名声を得て、芸術性に走る台湾映画は、かえって楽しめるものではなくなり、客が呼べない。侯孝賢の作品など、いまだにアメリカへは売れないと、焦さんは嘆く。
「台湾の監督はもっと市場を考慮すべきです。世界中で台湾ほど監督の意志を尊重するところはありません。映画は集団で作るものですから、すべてが理想にかなうというわけにはいきません。中国大陸の監督など、逆境の中で懸命に創作しています」と焦さんは語る。さらに心配なのは、技術面で後継者が育っていないことだ。人材育成では大陸に大きく遅れを取っている。そのため、政府関係者に会うごとに焦さんは、教師陣のそろった芸大に映画学科を創設すべきだと訴えている。
映画の低迷もどこ吹く風、焦さんは仕事に楽しみを見出すのが得意だ。映画祭の半分はPRとパーティーで、そのうえ世界中の名画が見られる。それに制作も楽しい。ストーリーを探し、編集やミキシングなど、創作に関われるからだ。現在、彼女は来年の新作4本を準備中で、アメリカの映画会社との合作が予定されている。
「彼女の貢献は計り知れません。特に海外資金の調達では一番。今回も作品6本をプロモートして、新たな道を切り開きました」と言うのは、林正盛監督だ。台湾の映画業界も過去は水に流し、身内の成功を素直に喜べば、必ず未来は開けるはずだと、林監督は言葉をかみしめるように語った。
1993年、フランスのナント映画祭では台湾映画回顧展が催された。写真は焦雄屏さんと俳優の高捷さん、鈕承沢さん、監督の陳国富さんだ。(焦雄屏提供)
1989年、台湾映画はイタリアで大成功をおさめた。侯孝賢監督の「悲情城市」がヴェネチア映画祭のグランプリに輝いたのである。写真は監督とスタッフだ。(焦雄屏提供)
1993年、フランスのナント映画祭では台湾映画回顧展が催された。写真は焦雄屏さんと俳優の高捷さん、鈕承沢さん、監督の陳国富さんだ。(焦雄屏提供)